ちょっと差がつく
『百人一首講座』
【2001年8月20日配信】[No.034]
- 【今回の歌】
- 藤原道信朝臣(52番) 『後拾遺集』恋二・672
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき あさぼらけかな
立秋が過ぎお盆も過ぎて、暑いとは言いながら秋の気配がそこここに感じられるようになってきました。だんだん日も短くなり夜の時間が長くなってきはじめる頃です。
今回紹介する歌を作った平安時代の若者にとっては、いとしいのは恋人との逢瀬を重ねる夜。夜がもっと長ければいいのに、夜が明けてしまうのは恨めしい。と、ちょっと照れくさくなるような初々しい恋の歌をご紹介しましょう。
現代語訳
夜が明けてしまうと、また日が暮れて夜になる(そして、あなたに逢える)とは分かっているのですが、それでもなお恨めしい夜明けです。
ことば
- 【明けぬれば】
- 「夜が明けてしまえば」の意味です。完了の助動詞「ぬ」の已然形に接続助詞「ば」がついて確定を表します。
- 【暮るるものとは】
- 「日は必ず暮れて(またあなたと逢える)」の意味です。
- 【知りながら】
- 「(心では)分かっているものの」という意味で、「ながら」は逆接の接続助詞です。
- 【なほ】
- 「そうは言うものやはり」の意味の副詞です。
- 【朝ぼらけ】
- 「明け方」「辺りがほのぼのと明るくなってきた頃」の意味です。恋歌ではおおむね、一緒に夜を過ごした男女が別れる、男が女のもとから立ち去る頃を暗示しています。
作者
藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん。972~994)
法住寺太政大臣・藤原為光(ためみつ)の3男で、藤原兼家(かねいえ)の養子となり従四位上・左近中将にまで昇進しました。
大鏡には「いみじき和歌の上手」とあり、和歌の才能を嘱望されていましたが、22歳の若さで夭折しました。
父の為光の死後には「限りあれば今日ぬぎすてつ藤衣 はてなきものは涙なりけり」と悲しみの深さを表す名歌を詠み、賞賛されています。
鑑賞
一見悲しみを詠んだ歌のように思えますが、よく読んでみると
「ずっと一緒にいたいのに、夜明けが来れば帰らなくてはならない。また日が暮れて夜が来て、再会できることは分かっているのだけれど、それでも恨めしいのは夜明けの光だ」
というような歌であることがわかります。おのろけ、というと言い過ぎでしょうが、なんとも初々しい恋人との交歓の喜びを歌った一首なのですね。
詞書には「女のもとより雪降りはべる日帰りてつかわしける」
とあり、逢瀬の後、朝に家へ戻ってから女性に送ったいわゆる
「後朝(きぬぎぬ。男女が共寝をした翌朝)」の歌です。
男が女の元に通うのが、平安時代の貴族たちには一般的な恋愛の形式で、その後には「後朝の歌」を贈るのが通例でした。
この歌はストレートに読める代表的な名歌で、解説がなくてもおおよその感情はつかめるだろうと思います。
女性との逢いたさ、別れのせつなさを歌う一首ですが、同時に22歳の若さと愛の喜びを感じさせる、若い歌でもありますね。
この歌の作者の実父・為光の法住寺太政大臣の名は、989年に為光が夫人と娘の忻子(花山天皇皇后)の菩提を弔うために建てたお寺です。1032年には一度焼失しましたが、後白河法皇が1158年に法住寺の跡地を御所として定め、「法住寺殿」を建てて院政を敷いたことから有名になりました。
現在は、東山の三十三間堂の隣にあり、身代不動尊で有名です。
この近辺は三十三間堂の他、京都国立博物館や豊国神社、耳塚養源院など、京都屈指の観光スポットで行かれた方も多いと思います。法住寺の身代不動尊は、病気の平癒に霊験あらたかということですので、お願いに行くのもいいかもしれません。京都駅から市バスに乗り、「博物館・三十三間堂前」で下車してすぐです。