読み物

ちょっと差がつく
『百人一首講座』

【2001年6月30日配信】[No.029]

【今回の歌】
法性寺入道前関白太政大臣(76番) 『詞花集』雑下・382

わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの
雲ゐにまがふ 沖つ白波

さて、うっとおしい梅雨ももうすぐ終わり。当メルマガでは、ここのところ暗めの恋の歌ばかり紹介してきましたので、ここらで梅雨を吹き飛ばすべく、夏を先取りした歌をご紹介しましょう。
真っ青な海と空、白い雲と波のコントラストが鮮やかな一首です。


現代語訳

大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。



ことば

【わたの原】
広々とした大海原のこと。「わた」は海を意味します。
【漕ぎ出でて見れば】
「船で漕ぎ出して、見渡してみれば」という意味です。上一段動詞「見る」の已然形に、接続助詞「ば」がつき、「すでに行っている」という確定条件を示しています。
【久かたの】
「雲居」にかかる枕詞で、「天・空・日・月・光」などにもかかります。
【雲居】
ここでは雲そのものを意味しています。本来は「雲のいるところ」つまり空を意味します。
【まがふ】
「混じり合って見分けがつかなくなる」という意味です。ここでは白い波と白い雲の見分けがつかない、という意味です。
【沖つ白波】
「沖の白波」という意味ですが、「つ」は上代に使われた古い格助詞で、「の」に当たります。またこの歌は体言止めです。

作者

法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん。=藤原忠通、ふじわらのただみち。1097~1164年)

摂政関白藤原忠実(ふじわらのただざね)の息子。若いうちから関白・氏の長者(一族の長のこと。藤原氏の総帥)となり、太政大臣従一位に至りました。詩歌や書にも才能を示し、晩年には出家して、「法性寺殿」と呼ばれました。保元の乱の時には後白河天皇側につき、崇徳上皇・藤原頼長と対立。平清盛らの軍勢が崇徳上皇側を破り、勝利を収めます。


鑑賞

詞書きには「海上の遠望」という題で、崇徳天皇の前で詠んだ題詠であることが示されています。
大海原に船で漕ぎ出してみた。見るとはるかな水平線のかなたの青い空に白い雲が浮かんでいる。さらに真っ青な海原に、白波が立っている。雲と見間違うような白さだ。なんと爽快な歌でしょうか。

空の青さと海の青、雲の白さと波の白。コバルトブルーと白のコントラストがあまりに鮮やかで、まるで日本とは思えないような風景です。化粧品や旅行会社の夏のTVコマーシャルのような、突き抜けた色彩感と雄大さがあります。
この歌は、百人一首にもある小野篁(おののたかむら)の
わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船
をイメージして詠まれたものとされていますが、小野篁のような孤独感は、この歌にはありません。
権力の絶頂にあった藤原氏の長らしい、雄大かつ豪壮な歌と言えるでしょう。

なお、保元の乱の時には題詠を命じた崇徳天皇と作者・藤原忠通は敵同士として戦うことになります。崇徳上皇とその弟の後白河天皇の権力闘争、また忠通と頼長兄弟の藤原家の家督の争いに、当時勢いを持ちはじめた源氏と平家の武士勢力が2手に分かれてつき、戦さになったものでした。
結局、先手を打った後白河天皇と忠通側が勝利し、負けた崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は戦死します。しかし、この乱によって貴族の勢力は弱まり、武士が力を持ち始めることになります。
崇徳上皇が流された讃岐の地は、現在の香川県坂出市。瀬戸内海を望む海辺の街で、本州と四国を結ぶ、瀬戸大橋の基点です。
ここからは、電車に乗って高松市まで1時間。金比羅神宮までも1時間ほどで到達することができます。
坂出市の崇徳上皇ゆかりの史跡には、流された上皇が暮らした「雲井御所」(林田町)や、遺体が葬られた白峯山などがあります。
史跡で石碑が立つのみですので、観光には郷土資料館など他のスポットと組み合わされるのが良いでしょう。四国巡りに行かれた折には、少し立ち寄って見られるのも良いかと思います。