読み物

ちょっと差がつく
『百人一首講座』

【2002年10月15日配信】[No.078]

【今回の歌】
参議篁(11番) 『古今集』羈旅・407

わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出でぬと
人には告げよ 海人(あま)の釣り舟

10月中旬です。
異常気象が続いた今年ですが、10月も上旬まで夏並みの暑さで驚いた人も多かったことでしょう。
しかし、さすがに中旬ともなると夜は肌寒くなり、外出にも厚手の上着が必要になってきました。
各地の高山などから、初霜が降りたという知らせも舞い込んできます。また海風が冷えてくるのも今頃。
瀬戸内の海はまだ暖かいでしょうが、船で出かけるなら十分厚着をして、風邪を引かないように気を付けてくださいね。
今回は、船による寂しい旅立ちの歌です。



現代語訳

広い海を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったよ、と都にいる人々には告げてくれ、漁師の釣り船よ。


ことば

【わたの原】
広い大海原、という意味です。
【八十島(やそしま)かけて】
「八十(やそ)」は「たくさん」を意味する言葉です。また「かけ」は動詞「かく」の連用形で「目指して」という意味になります。
【漕(こ)ぎ出でぬと】
「ぬ」は完了の助動詞で「漕ぎ出したよ」という意味になります。
【人には告げよ 海人(あま)の釣り舟】
「人」とは、都にいる人々を指します。「海人(あま)」とは、「漁師」の意味で、「釣り舟」を人間に見立てて呼びかける、擬人法を使っています。

作者

参議篁(さんぎたかむら。802~852)

本名を小野篁(おののたかむら)といいます。834(承和元)年に遣唐使の副使に選ばれ、836(承和3)年に唐に向けて出発しましたが難破して帰国。837年の再出発の時に破損した船に乗せられそうになり喧嘩をしたため、当時の嵯峨天皇の怒りにふれ、2年間隠岐に流されました。後に文才を惜しまれ、都に戻され参議にまで出世しています。


鑑賞

この歌は、作者紹介を見ていただければ分かるように、作者が隠岐へ流される時に作り、京の宮廷の人々に送った歌です。
内実を知らずに読むと「大海原へこれから漕ぎ出すぞ」という勇気凛々とした冒険の歌かと勘違いするかもしれませんね。
しかし作者は流刑に処せられ、これから遠く寂しい離れ小島へ渡っていくわけです。
そこには「遠い都の人々へ伝えてくれよ、漁師の釣り船よ」と船に語りかけながら旅立つ孤独な姿が見え、また悟りきったような寂しい背中が見えるようでもあります。
波間に浮かぶ小さな舟の描写が、見事に作者の孤独を表しているようではありませんか。

隠岐諸島は現在の島根県の沖、日本海に浮かぶ島です。今は松江市まで車や電車で行き、そこからフェリーに乗ればすぐです。
しかし当時は、難波(現在の大阪市)の港から船に乗り、瀬戸内海を廻って本州と九州の境にある関門海峡を通り、ぐるっと廻って隠岐まで連れて行かれたそうです。
なぜそんな遠回りをしたのか不思議ですが、その悲しく長い旅路を想像すると、この歌を詠んだ作者の心の重さがずっしりと伝わってくるようですね。

隠岐諸島は百人一首の撰者、藤原定家も仕えた後鳥羽上皇も流された島で、院の遺体を葬った塚の他、隠岐神社や国分寺、歴史博物館など由緒ある見所が多く残されています。訪れる場合は、松江市などからフェリーが発着しています。