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をぐら歳時記

百人一首対談集

『小倉百人一首』とともに◆その一


花に学ぶ、瞬間の大切さ

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
〔第九番 小野小町〕

色あせた桜に老いた自分の姿を重ねた小野小町の一首。この歌が共感を得るのは、年をとるにつれて衰えゆく「無常な時間に敗れゆく美」を詠い上げているからかもしれません。今回は小野小町が詠んだ「花の色は・・・」の歌について、百人一首を専門的に研究されている吉海直人先生にお話を伺いました。


山本 時は流れ、自然は移ろいます。百人一首には四季を詠んだ歌が多く見受けられますが、その中でも春の代名詞と言えば「花」だと思うのですが。

吉海 百人一首に四季の歌は三十二首あります。春らしい歌と言えば「梅」か「桜」を詠んだ歌ですね。百人一首では「桜」の歌が六首も含まれていて、一首しかない「梅」を圧倒しています。秋の「紅葉」もちょうど六首なので、「桜」と「紅葉」が拮抗している構成になっています。その「桜」の歌の中でも、小野小町の「花の色は・・・」の歌は非常によく知られていますね。

山本 小町の歌には「桜」という言葉が詠みこまれていませんが、儚さを美徳とする日本人の感性から考察すれば、「桜」を示唆していると判断できますね。

吉海 はい、平安時代に「花」と言えば「桜」を指すことが多かったようです。この歌の出典は『古今集』の春の下、つまり春の後半ですから、早春に咲く「梅」ではなく「桜」と考えて間違いありません。なお「花の色」という言い方は、漢詩の「花色」の和訓かもしれません。「花」と同じ意味なのですが、「花の色」とあることで小町の美しさを表しているようにも受け取れますね。

山本 小町に対する解釈は様々で脚色されている部分もあるといえますが、先生はこの歌が詠まれた状況をどうお考えですか。

吉海 実はこの歌には「題知らず」という詞書が付いているので、どういう状況で詠まれた歌なのかはわかりません。ただし、この歌に小町の人生が投影されているとすれば、若い盛りの頃ではなく、むしろ容色(※1)の衰えを感じる年齢に達してから詠まれたと考えられています。

山本 絶世の美女として数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われている小町ですが、実際のところはどうだったのでしょう。

吉海 実際のところ、小町について信頼できる資料はほとんどありません。活躍した時代に関しては、小町と歌の贈答をしている安倍清行(八二五~九〇〇年)・小野貞樹(八五〇年頃活躍)・文屋康秀(八七〇年頃活躍)・僧正遍昭(八一六~八九〇年)から、ほぼ仁明・文徳朝(八三三~八五八年)に活躍していたことがわかります。美人だったかどうかも、記録にきちんと記されているわけではありません。かろうじて『古今集』の撰者の一人である紀貫之が『古今集』の「仮名序」を書いているのですが、その中に「六歌仙」の評があって、そこに小町のことが「小野小町はいにしへの衣通姫(※2)の流なり」云々とあります。本来は血脈ではなく歌い方のことなのでしょうが、美人として知られている衣通姫の子孫と誤読されたことで、いつしか小町も絶世の美人だという解釈が定着していったようです。また、『古今集』には小町の歌が全部で十八首あるのですが、そのほとんどが恋の歌で、しかも閨怨(※3)の歌が多いという特徴があります。その方が文学的にも都合がいいわけで、だからこそ小町の晩年の零落(※4)が後世に醸成されたのでしょう。

山本 春は陽気な季節であるにもかかわらず、そこに容色の衰えが潜んでいるというのは、現代人に対する警告めいていて面白いですね。

吉海 『古今集』では春の歌として収録されているのに、一般には述懐の歌としてとらえられています。その原因の一つが「うつりにけりな」の解釈ではないでしょうか。もともと「移る」というのは空間移動のことで、桜の場合は「落花」、つまり花が散ることです。「桜」の美というのは、咲いた花の見事さよりも散りぎわのよさであり、そして散る桜を惜しむところにあります。はかないものを惜しむという日本人の感性にマッチしているのでしょう。それに対して「うつろふ」は時間の経過を伴う変化です。この歌ではどうも「移る」が「うつろふ」と混同され、容色の衰えとして解釈するのが一般的になっているようです。というのも美人として名高い小町の晩年の零落を、この歌から読みとりたいと願ったからではないでしょうか。

《用語解説》
※1 容色(ようしょく)
容貌、顔かたち。
※2 衣通姫(そとおりひめ)
古代の伝説の女性。その美しさが衣を通して輝くことからその名がついた。絶世の美女とされ、「本朝(日本の朝廷)三美人」の一人に数えられる。
※3 閨怨(けいえん)
夫と別れて暮らす妻が寂しさを怨むこと。
※4 零落(れいらく)
落ちぶれること。

~取材を終えて~

美しい花が色あせるように、同じ状態を変わらずに維持していくことは、不可能なことです。移り変わっていくことは自然なことであり、命あるものにとって必然的なことと言えます。だからこそ、今をどう生きるのかが大切なのだと思うのです。

そう考えると、今という瞬間をいかに大切にしていかなければならないかを意識します。茶の湯の心得を表した言葉に、「一期一会」があります。そこには、仮にいつも出会う友人であっても、茶席での出会いは一生に一度の機会、今日唯今の交わりは二度と巡ってこない、だからこそ全力を尽くして永遠に変わらぬ心情を通わせよう、という願いが込められています。

私ども小倉山荘では、お客様との出会いを二度と訪れぬ瞬間と捉え、お菓子づくりを通して人と人との絆づくりのお手伝いに努めて参りたいと考えています。

山本雄吉