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をぐら歳時記

百人一首対談集

『小倉百人一首』とともに◆その七


黄葉から紅葉へ、深まる趣。

奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき
〔小倉百人一首 第五番 猿丸大夫〕

人里離れた山奥で、散り敷かれた紅葉の中を踏み分けながら、雌鹿恋しさに鳴く雄鹿の声に感慨を呼び起こさせる一首。この歌は、遠く離れた恋人を思う作者の境遇を踏まえて詠んだ歌であるとも言われており、刻々と変わる自然の表情に、人の情けや機微を想起させてくれるようでもあります。今回は、猿丸大夫が詠んだ「奥山に・・・」の歌について、『百人一首』を専門に研究されている吉海直人先生にお話を伺いました。


山本 紅葉の名所として、毎年多くの方が京都を訪れます。『小倉百人一首』にも紅葉の歌が多く撰ばれていますが、これはやはり撰者である藤原定家の嗜好のあらわれのように感じられます。

吉海 もともと『百人一首』には、秋の歌が多く収められているのですが、秋の花である菊の歌が六首もあるのはちょっと多すぎる気がします。その理由として、定家が『百人一首』を編纂した地とされる「小倉山荘」のある京都・嵯峨野(小倉山・嵐山)が、当時も紅葉の名所ということで、それに因んで紅葉の歌が多いのではないかといわれています。また「小倉山荘」は、『時雨亭』(※1)とも称されていますが、「時雨」こそは紅葉の色を濃く鮮やかに演出してくれるものですので、定家の山荘と紅葉との関わりは非常に深いことになります。

山本 一般的に「もみじ」というと「紅葉」の表記が思いうかべられますが、万葉時代には「黄葉」と記されています。それが平安時代になると「紅葉」に代わっていますが、この違いは何なのでしょうか。

吉海 『百人一首』にちょうどよい例があります。それがまさに猿丸大夫の「奥山に・・・」の歌なのです。この歌の出典は『古今集』ですが、作者は「読み人知らず」となっています。もともと作者未詳の伝承歌だったようですね。それはさておき、ここでは『古今集』上の配列に注目してみましょう。この歌は「秋上」に配列されていますが、変だと思いませんか。普通に考えるならば、紅葉といえば晩秋ですから、「秋下」に置かれるはずです。となると、この歌は必ずしも楓の紅葉を歌っているのではないことがわかります。改めて『古今集』におけるこの歌の前後を見ると、「萩」の歌群の最初に位置していることがわかります。つまり『古今集』では、中秋頃の萩の「黄葉」を詠んだ歌と解釈するのがもっとも相応しいのです。『和名抄』という古い辞書には、萩の異名として「鹿鳴草」と出ているように、鹿と萩の取り合わせは、『万葉集』以来のものとして知られています。 

山本 つまり、歌人の生きた時代背景からしても、この歌の「紅葉」は萩の「黄葉」だと理解して良いのですね。

吉海 この「奥山に・・・」の歌は、菅原道真撰と伝わる『新撰万葉集』という歌集にも収められているのですが、その表記を見ると「黄葉」になっています。また、『古今集』の古い写本を見ると、やはり「黄葉」と表記されていました。ところが定家が書写した『古今集(伊達本)』(※2)では、それが「紅葉」と書き改められているのです。しかも、定家が『勅撰八代集』の中から秀歌を撰んだ『八代抄』(※3)では、この歌を晩秋に鳴く鹿のグループに配列替えしています。つまり定家は、鹿の鳴き声の物悲しさから季節を中秋(秋上)から晩秋(秋下)に移し、それに合わせて紅葉の色も萩の「黄葉」から楓の「紅葉」へと入れ替えたことになります。

山本 「萩」から「楓」への詠み替えは、定家がこの和歌をより秀逸な作品に仕立てるために意図的に行ったと考えると、『百人一首』をより興味深く楽しむことができますね。

吉海 このように考えると、この歌の謎がすべて解明されます。これこそが『古今集』の世界とは全く様相を異にしている、『百人一首』独自の世界観と言ってよいのではないでしょうか。この定家による色彩と季節の意図的な詠み替えによって、この歌は一層秀歌として愛唱されるようになったのです。余談ですが、花札の十月札に楓と鹿が描かれた役札(※4)がありますね。その絵はこの「奥山に・・・」を元に描かれているとされているのです。

《用語解説》
※1 時雨亭(しぐれてい)
「小倉山荘」の別称。藤原定家が「忍ばれん ものとはなしに 小倉山 軒端の松ぞ なれて久しき」と詠んだことによる命名。
※2 『古今集』(伊達本)
藤原定家が書写した『古今集』の中の一つで、伊達家に伝来したもの。
※3 『八代抄』(はちだいしょう)
『古今集』から『新古今集』までの勅撰和歌集の中から定家が秀歌を抜粋したもの。『百人一首』と九十二首が一致している。
※4 役札(やくふだ)
花札で、一つの出来役を構成する札のこと。

~取材を終えて~

秋は、どことなく物悲しい季節。昼間と夜の寒暖の差が大きくなるにつれて、木の葉は色づき、燃えるような赤に染まっていきます。そして、やがて枯れ散って、季節は冬へと移ろいでゆくのです。自然の摂理といえば、それまでですが、それは新たな生命を育む再生の営みと言えます。だからこそ、その瞬間を愛で、慈しむ心を大切にしなければならないのです。季節は移り変わろうとも、刹那の感動は残るものといえます。

人間関係も同じことだと思うのです。私たちの生活も、周囲の人たちとの関わりの中で成り立ち、生かされていると言えるのではないでしょうか。ですから、自然を慈しむのと同じように、お世話になった方々に対する感謝の心を忘れてはならないと思います。小倉山荘は、お客様をはじめ、支えてくださっている多くの方々に感謝し、これからもより良い商品づくりに精進してまいります。

山本雄吉