をぐら歳時記
百人一首対談集
『小倉百人一首』とともに◆その八
心の目を通して共感を紡ぐ。
田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ
〔小倉百人一首 第四番 山辺赤人(※)〕
頂を真っ白にした富士に今も雪が降り続いている。その神々しいまでに見事な富士山の情景を詠んだ一首。この歌が印象深く感じられるのは、「雪はふりつつ」と余情を残しているからです。だからこそ幻想的な趣が醸成され、しみじみとした印象につながっているのではないでしょうか。今回は、山辺赤人が詠んだ「田子の浦に・・・」の歌について、『百人一首』を専門に研究されている吉海直人先生にお話を伺いました。
山本 雪をいただいた富士は、しばしば絵画のモチーフにもなっています。自然界では冬は花も咲かず、これといった景物が存在しないためかもしれませんが、この歌は富士山と雪の取り合わせの美しさを讃えた先駆けといえるのでしょうか。
吉海 確かに冬は寒いし、草木も枯れてしまいますから、詠う題材には困りますね。『百人一首』に冬の歌は六首ありますが、「富士山の雪」(四番)・「かささぎの橋」(六番)・「山里の景色」(二八番)・「吉野の雪」(三一番)・「宇治の景色」(六四番)・「淡路島の千鳥」(七八番)とあって、植物ではなく雪や霜がメインになっています。
この歌の原典は、最古の和歌集である『万葉集』三二一番ですから、確かにかなり古くからある取り合わせといえます。ただし、この歌は『新古今和歌集』にも再録されており、そこから採ったようなので先駆けとはいえませんね。
山本 『万葉集』と『百人一首』では、歌の読み方が違っているといわれていますよね。このことを要因として、『百人一首』の歌に何か影響が見受けられますか。
吉海 『万葉集』は原則、漢字表記されています。それを訓読すると、「田子の浦ゆ うちいでて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」となります。
『百人一首』と比較すると「田子の浦ゆ」が「田子の浦に」に、「真白にぞ」が「白妙の」に、「ふりける」が「ふりつつ」に変わっています。
昔から『百人一首』は、変質してしまったといわれています。たとえば反復・継続の接続助詞「つつ」では、現在、雪が降っていることになるため、富士山が見えるはずはないということで、過去、詠嘆の助動詞「ける」の方が勝っていると判断されていました。
山本 確かに現在、雪が降っているのであれば、富士山は見えませんね。しかし『万葉集』では、その場に身を置いて詠むのが普通で、平安時代になると現場に行かずに風景を詠むのが一般的だと思うのですが。
吉海 その通りです。赤人が富士山を見てこの歌を詠んだとすれば、まさに写実と言っていいのですが、『百人一首』は必ずしも写実にはこだわりません。富士山は、天地開闢(※)以来ずっと雪が降り続いていたとされています。だからこそ、「不尽(尽きず)」とも表記されているのです。その雪の永続性を消さないためには、どうしても「つつ」が要求されるのではないでしょうか。むしろ富士山が見えなくなるこの「つつ」にこそ、永続性が付与されていると考えられます。
山本 『百人一首』は、眼前の光景ではなく心の目で見ているということですね。ところで作者表記を見ると、「山部」と「山辺」と二通りの表記がありますね。
吉海 この作者表記に関して、『万葉集』では、「山部」で統一しています。それに対して、『百人一首』では「山辺」が多いようです。柿本人丸にしても、『万葉集』では「人麻呂」表記で統一していますが、平安時代は「人麿」となり、『百人一首』では「人丸」表記が多くなっています。これらのことから、『万葉集』の「柿本人麻呂」「山部赤人」と『百人一首』の「柿本人丸」「山辺赤人」は、別人として考えられます。「人丸」の「あしびきの・・・」(第三番)は、もともと人麻呂の歌ではありませんし、「山辺」の歌は詠み方が異なっているのですから、むしろ積極的に平安歌人としての「人丸」「山辺」とした方がわかりやすいのではないでしょうか。
山本 それは、かなり大胆な考え方ですね。『百人一首』というのは、そういった考察を許容する作品だといえますね。
吉海 ここでは『万葉集』との違いについて、どちらの歌の詠み方が正しいかではなく、思い切って時代的な解釈の問題としてとらえてみました。『百人一首』は、作者の意図や詠まれた時代の解釈を越えて、新しい解釈の可能性を考えされてくれる魅力的な作品だと思っています。是非、既成概念にとらわれることなく、自由な発想で『百人一首』を楽しんでください。
山本 このことは、小倉山荘のお菓子作りにも通じるように感じます。私たちも既成概念にとらわれず、より豊かな発想でお客様に喜んでいただける商品開発等を行っていきたいと思います。ありがとうございました。
- 《用語解説》
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※ 天地開闢(てんちかいびゃく)
天と地が分離・誕生した世界の始まりのこと。 -
※ 山辺赤人の作者表記について
吉海先生からは「山辺赤人」の表記について、斬新で独創的なお話がありましたが、小倉山荘では他の媒体も含め、書籍などを通じて広く一般的に紹介されている「山部赤人」を採用させていただいております。
~取材を終えて~
時代はいやおうなしに進み、時計の針は刻まれていきます。まさに鴨長明の『方丈記』のように、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ですね。それなのに私たちは、つい過去の経験や既成概念にとらわれがちです。時流に合わせるように人の思考や志向も変化していくのに、やり方はそのままでは、いつか様々なものが停滞していきます。私たちは立ち止まって、自分自身をリセットしていくことが大切なのです。
年末年始は、その良い機会といえます。一年を振り返ってけじめを付け、そして新しい年を新鮮な気持ちで迎える。その中で、人は進化できているのかも知れませんね。この一年、お世話になった方に心を込めて報恩し、また新年のご挨拶をすることも意味あるけじめの一つといえるはずです。
私たちも、より美味しい商品やより喜ばれるサービスの創造を進化させていきたいと考えています。
山本雄吉