をぐら歳時記
小倉百人一首をひもとく
『小倉百人一首』を通じて書に親しむ◆その一
変遷・洗練され誕生した「かな文化」
平安時代に日本人独自の美意識から生まれた「かな」。今回は、かな書法を専門分野とされている京都橘大学の橋本先生に、日本における感じから「万葉がな」、そして「かな」文字に至るまでの始まりと読み方などについて、ご紹介していただきます。
漢字の伝来と「万葉がな」のはじまり
固有の文字がなかった日本では、漢字をもとに文字文化や独自の書の美を育んできました。
漢字の伝来については、漢の皇帝が贈ったとされる金印(漢委奴国王印:かんのわのなのこくおういん)が、江戸時代に発見されています。これは弥生時代には中国と日本に交流のあったことを示す唯一の漢字の遺品であり、この頃に漢字が伝わったと考えられます。
たとえば、「こころ」は「許己呂」と書かれました。「かな」は、漢字の意味は無視して形と音だけをあてて文字としたもので、もっとも初期の「かな」を「万葉がな」と呼んでいます。飛鳥から奈良へと移るころ『万葉集』の書写に広く用いられたことから「万葉がな」と呼ばれたのです。「あ」の音に「安」「阿」「愛」の字をあてるなど、いろいろな文字が用いられたため、その数は一千字近くにのぼります。
先人たちは、古墳時代の五世紀前後から約三百年の間に、漢字の音を用いながら日本語を編み出しました。つまり、漢字を仮名(「かな」)として使用したものなのです。
日本人の美意識によって生まれた「かな」
奈良時代にはこの「万葉がな」が、楷書や行書で書かれ、「男手(おとこで)」などとも呼ばれていました。「男手」は次第に草書的に書き崩され、平安時代前半には、さらに省略化して書かれました。これを「草(そう)がな」といいます。「万葉がな」が日本人の美意識によって洗練され草書化・省略化されて一字一音の文字として定着したのが「平がな」です。この「平がな」は、和歌や物語の表記に適した書体として、ことに平安朝の女性の間で日常的によく用いられたことから「女手(おんなで)」と呼ばれるようになりました。「平がな」の形は平安時代前半には成立し、平安時代半ばには完成をみたと思われます。
日本人の美意識の根底にあるのは、繊細な季節感であり、自然への畏敬の念だと思います。古来より、自然のもの全てに神が宿っているといった”八百万の神”信仰を持ち、そのような思考が、丸みを帯びたフォルムや美しい佇まいを有する「平がな」の誕生に繋がったものと考えられます。書においては、風の囁きや光の陰影などといった自然界の風情を落とし込んで愛でるといった感性が、墨の濃淡や線の太細といった表現の中に息づいているのです。人は誰でも美しい文字を書きたいと願います。そのためさまざまな様式の「かな」が書かれるようになり、そこには書としての発展の歴史があります。
優しさや温かみが感じられる「変体がな」
「かな」には、古来さまざまな種類と呼称がありました。現代の日常生活で漢字と並び、とても広く使われている「平がな」と「片かな」は、明治三十三年(一九〇〇年)に統一されたものです。そこに選ばれなかった「女手」を「変体がな」と呼んで区別しています。もともと「女手」は、ひとつの音に対して平均三、四字くらいの「かな」があったため、当時の音が五十あったとすれば、二百字ほども存在したことになります。つまり、今日の「平がな」「片かな」の他に百五十字を覚えなければ、平安時代の「かな」は読めないのです。
明治時代に入って整理されたとはいえ、私たちは現代でも「万葉がな」を省略して、よりシンプルにした「女手」である「変体がな」を普段の暮らしの中で目にしています。例えば、箸袋に書かれている「御手茂登(おてもと)」や、女性の手紙に使われることの多い末尾の「可しこ(かしこ)」など。「変体がな」の書にも女性らしい秀麗さを求めたわけです。デジタル化社会が進み、手紙を自筆で書く機会も少なくなりましたが、手書き文字の優しさや温かさからは、何かしら書き手の人柄や心遣いまでもが伝わってくるように感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか。