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をぐら歳時記

小倉百人一首をひもとく

『小倉百人一首』の撰者 藤原定家に迫る◆その二


情熱的な恋歌が生んだ
悲恋物語

鎌倉時代初期の公家・歌人で、歌壇の指導者としても活躍した藤原定家。父母の影響もあったことでしょう、心を揺さぶられるような恋歌にも、彼の天才の片鱗を見ることができます。謡曲にも取り上げられ、伝説として後世に伝えられる「定家」の恋。日本古典文学を専門に研究されている小林一彦先生に、今回はそんな定家の青年期についてご紹介していただきます。


定家に因んで付けられた
「テイカカズラ」

繊細にして優美、妖艶な歌が多い『新古今和歌集』(※1)ですが、特に定家の恋歌には、その傾向が強く見てとれます。

かきやりし 
その黒髪の すぢごとに
うちふすほどは 面影ぞたつ

【歌意】
ともに過ごした夜、私がかき撫でた貴女の黒髪の感触が、この手に一筋一筋くっきりと残り、ひとり 寝の床に臥す時には、貴女の面影がまざまざと目に浮かんでくるよ。

これは当時、流行した古歌の一節を引用してつくる「本歌取り」の歌です。和泉式部(※2)の「黒髪の 乱れも知らず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋ひしき」(後拾遺和歌集)(※3)の一部を詠み込むかたちで創作されています。

室町時代に能役者・能作者として活躍した、金春禅竹の作に能「定家」があります。テーマは愛欲。古い石塔を蔓草が覆い隠して、取り除いても取り除いても、一夜でもとの通りに覆われてしまうという不思議な話です。その石塔は式子内親王(※4)の墓で、それにまとわりつく蔓草こそ定家なのでした。
この作品は、後白河天皇(※5)の皇女で、斎院(斎王)として神に仕えた聖なる女性(式子内親王)との、身分を超えた、秘密の恋を描いたものです。斎院は未婚の皇女が務める決まりで、役を退いた後の関係とはいえ、二人の逢瀬は身分を超えた許されない恋でした。定家は、死後も執着をこの世に残し、身を蔓草、すなわち「テイカカズラ」に変えて、愛おしい式子の墓に絡みついたというのです。史実ではありえない架空の話ですが、このような伝説が能「定家」のもとになったようです。

テイカカズラ(定家葛)
「テイカカズラ」の花の名称は、式子内親王を愛した定家が彼女の死後にも執着して、その墓に蔓草となってからみついたという伝説から命名されたといわれています。


人々の想像をかきたてた
「題詠」による創作

定家は八十歳で世を去りますが、当時としては驚くほどの長命でした。けれども、十四歳ではしか、 十六歳で天然痘と、いずれも死を覚悟するほどの大病を患い、そのせいか、生涯を通じて病弱だったといいます。当時のスポーツである蹴鞠や乗馬、水練などは嫌いで、内向的で神経質な青年だったようです。

定家の異父兄で、母を同じくする隆信は、色好みとして知られていました。定家の父・俊成も多くの女性を愛し、たくさんの子供に恵まれました。定家は、艶っぽい恋歌を何首も残していますが、その多くは現実の体験とは関わりなく、あらかじめ与えられた題によって詠まれたものでした。「題詠」とよばれる和歌の創作方法で、当時はそれが主流でした。

定家は弟子に、恋歌の詠み方を次のように説いています。

「恋の歌をよむには凡骨の身を捨てて、業平のふるまひけむことを思ひいでて、わが身をみな業平になしてよむ」。自分は奥手で恋の道には暗いけれども、恋歌を詠む時には、全身全霊、在原業平(※6)になりきって詠むというのです。もとより、実人生で定家が恋愛に明け暮れるということはありませんでした。色好みの代名詞・『伊勢物語』(※7)の主人公と信じられていた業平のように情熱的な定家の恋歌が、死して後も愛欲の妄想を断ち切れない、定家と式子の架空の悲恋物語を生み出したのかも知れません。

式子の『小倉百人一首』(第八十九番)の有名な歌 も、世間を忍ぶ秘めた恋を題材としたものでした。

玉のをよ 
たえなばたえね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする

【歌意】
私の命よ、絶えるならいっそ絶えてしまってほしい。このまま生き長らえたなら、忍ぶ力も弱まって、秘めた恋がきっと露見してしまうから。

この相手はいったい誰なのか、人々の想像をかきたて、定家との悲恋物語の成立に、一役かっていたことでしょう。ただし、式子のこの歌も実生活を反映したものではなく、「忍恋」の題詠歌で、男の立場で詠まれたフィクションであることが、今日では明らかにされています。

《用語解説》
※1新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
鎌倉時代初期に後鳥羽上皇の命で、藤原定家などによって編纂された勅撰和歌集(全20巻/約1980首)。
※2和泉式部(いずみしきぶ)
平安時代中期の女流歌人。優れた恋歌の作者として知られ、「和泉式部集」や「和泉式部日記」などで名高い。
※3後拾遺和歌集 (ごしゅういわかしゅう)
平安時代後期に白河天皇の命で、藤原通俊によって編纂された勅撰和歌集(20巻/約1200首)。
※4式子内親王 (しょくしないしんのう)
平安時代後期~鎌倉時代初期の女流歌人で、後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院をつとめ、晩年に出家する。藤原俊成に和歌を学び、新古今集には49首が入集。
※5後白河天皇(ごしらかわてんのう)
鳥羽天皇の第4皇子で、第77代天皇。在位3年の後、天皇5代にわたり上皇として院政を行う。
※6在原業平(ありわらのなりひら)
平安時代前期~中期の貴族・歌人で、平城天皇の孫。情熱的で感動的な和歌を残すと共に、美男子の代表といわれる。伊勢物語の主人公とされている。
※7伊勢物語(いせものがたり)
平安時代中期の歌物語。作者・成立年未詳。125段の長短さまざまな章段からなり、恋愛を中心に在原業平と思われる男の生涯を描いた歌物語。

小倉山荘からのメッセージ

和歌の創作には、「本歌取り」や「題詠」などの手法があるようですが、恋歌は人が人を想う気持ちを詠むものに変わりはないはずです。能の題材として取り上げられていたとはいえ、定家の情緒的で艶美な和歌が人々の心に強く響いて残り、「テイカカズラ」の伝説が誕生したのでしょう。

恋愛に限らず、いつの時代も、相手の立場になって考えることが肝要です。生きていくということは、人と人との関わりなしでは成り立ちません。

まもなく、お中元の時節を迎えます。日頃、お世話になっている方に感謝の気持ちを伝えたり、ご無沙汰している方にご機嫌伺いするなど、相手を想う気持ちを大事にしたいもの。その根本にあるのは、相手を慮る気遣いだと思うのです。

私たち小倉山荘も、お客様はもとより、その方が贈られる先様にも配慮した接客を、これからも心掛けてまいりたいと考えています。

山本雄吉