をぐら歳時記
小倉百人一首をひもとく
『小倉百人一首』の撰者 藤原定家に迫る◆その三
幸運を引き寄せ、才能が開花
鎌倉時代初期の公家・歌人で、歌壇の指導者としても活躍した藤原定家。ひとつの出会いをきっかけに幸運を呼び込んだ遅咲きの天才が、その才能を覚醒。そして定家は、後鳥羽院(※1)の恩顧を受け、『新古今和歌集』(※2)の完成へと突き進むことになるのです。今回は、日本古典文学を専門に研究されている小林一彦先生に、そんな定家の開花期についてご紹介していただきます。
主従関係を超えた九条良経との巡り合わせ
父親の俊成が摂関家の九条兼実に和歌師範として仕えていた関係で、藤原定家が二十五歳の頃から、親子で九条家に出入りするようになります。九条家では、あれこれと事務的な仕事もこなしつつ、兼実の息子・良経に親しく接する機会を得ました。良経は、後年『新古今和歌集』の巻頭を飾る、才能あふれる歌人でもありました。定家より七歳年少ですが、漢詩文に通じ、教養も深い良経と定家は、主従の立場を超えて互いの才能を認め合い、切磋琢磨する間柄となります。九条家には、このほかに兼実の弟で、後に天台座主(天台宗を統轄する延暦寺の住職)に昇りつめた慈円をはじめ、俊成の甥の寂蓮法師や藤原家隆など後世の「大家」「有名人」も出入りし、新しい詩歌(漢詩や和歌)を、競い合うように創出していったのです。
丹精込めて仕上げた『正治初度百首』(※3)
正治二年(一二〇〇年)、定家は三十九歳になっていました。弱冠二十歳の若き上皇・後鳥羽院は和歌に目覚め、貴族たちに百首の歌を詠進(詩歌の提出)させることを企てます。公的な百首としては、ほぼ半世紀ぶりの大々的な和歌催事でした。この頃には既に頭角を現していた定家に対して守旧派の歌人たちの妨害もありましたが、最終的には父・俊成の奔走により詠進者の一人として参加が認められました。定家は、一首一首丹精を込めて自作を仕上げ、父・俊成などに意見を求め、慎重にこの『正治初度百首』を進めていったのです。
駒とめて 袖うち払ふ かげもなし
佐野の渡りの 雪の夕暮れ
- 【歌意】
- 乗っている馬を止めて、袖の雪を払おうにも、それができる物陰すらもない。この佐野の渡し場の雪の降りしきる夕暮れよ。
- ※『万葉集』の古歌「苦しくも 降りくる雨か 三輪の崎 狹野の渡りに 家もあらなくに」をもとに、「雨」を「雪」に変えるなど、本歌取りのお手本とされるこの秀歌も、百首の中に入っていました。
降り来る雪をおして馬を進めながら、人家はおろそか、辺りには物陰すらない。夕暮れにさしかかり、不安な気持ちがさらに一層強まっていく中での情景を詠んでいます。けれども、定家は「苦しい」「寂しい」という語を一切用いず、「雪の夕暮れ」という美しい言葉の体言止めで余情豊かに一首を結び、雪中の旅をむしろ艶やかに、うたい上げていくのです。優雅な情景が目に浮かぶような「名歌」であり、後々、絵画や蒔絵箱などの美術工芸品に好んでこの図柄が描かれたのも、うなずけます。
後鳥羽院に見出され、ひのき舞台に上る
提出された百首の歌を手にとった後鳥羽院は、一目で定家の才能を見抜き、自らの側近に取り立てたばかりでなく、土御門天皇(※4)にも、定家が内裏へ上がることを許すように促しました。当時は、四十歳から長寿の祝賀をしましたので、定家は老境にさしかかって、ようやく歌人として、また廷臣(朝廷に仕える臣下)として、陽のあたる場所に立つことができたのです。
翌年、和歌所が設置され、定家も良経・俊成・家隆・寂蓮・鴨長明(『方丈記』の作者)らとともに寄人(職員)に選ばれ、さらに『勅撰和歌集』(※5)の撰者を命じられました。御所での歌会はもとより、遠く熊野参詣や水無瀬離宮(別荘/現在の大阪府三島郡島本町に所在)へのお供にも指名され、その都度、催される歌席ではさまざまな差配をしたり、歌の評定を下したり、院の近臣として欠かせない存在となっていきます。体力に自信のない定家には苦痛でしたが、それでも院によく仕え、後鳥羽院のもとで熱に浮かされたような季節を過ごし、日本文学史の金字塔である『新古今和歌集』の完成へと突き進むのでした。
人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 〔小倉百人一首 第九十九番 後鳥羽院〕
- 《用語解説》
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※1 後鳥羽院(ごとばいん)
高倉天皇の第4皇子で第82代天皇(在位/1183~1198年)、後に上皇として院政(天皇3代にわたり23年間)を行う。討幕を計画し「承久の乱」を起こすが、幕府に完敗し隠岐に流される。 -
※2 新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
鎌倉時代初期に後鳥羽上皇の命で、藤原定家などによって編纂された勅撰和歌集(全20巻/約1980首)。 -
※3 正治初度百首(しょうじしょどひゃくしゅ)
正治2(1200)年に後鳥羽院が、院自身をはじめ式子内親王・良経・俊成・家隆・慈円・寂蓮など23名の歌人に詠進させた計百首の和歌。 -
※4 土御門天皇(つちみかどてんのう)
後鳥羽天皇の第1皇子で、鎌倉時代の第83代天皇(在位/1198~1210年)。 -
※5 勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)
天皇や上皇などの命により編纂された歌集。『古今和歌集』から『新続古今和歌集』まで21集がある。
小倉山荘からのメッセージ
定家の人生は、ひとつの出会いによって大きく変わったということ。人との出会いをきっかけとして、新しい道を拓いていくために必要なのは、その人が輝いていることではないでしょうか。何故ならば、輝いていない人には、その出会いを生かすことはできないと思うからです。だからこそ、日頃から自分を磨くことが求められるのです。定家は、もともと才能があったのでしょうが、それだけではないでしょう。やはり努力をし続けていたのだと思うのです。良い縁を結べるような出会いとは、その人のこれまでの努力の結晶と呼べるものなのかもしれません。
小倉山荘のモットーは、絆の支援です。人と人とを繋ぐ橋渡しのお手伝いができればと考えています。「定家と良経」、そして「定家と後鳥羽院」との出会いも、それなりの橋渡しがあったからこそ、実を結んだのだと思うのです。私たちは商品を通して、皆さまのより良い結びつきに寄与できるよう、これからも精進してまいります。
山本雄吉