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想いを伝える

『小倉百人一首』が伝える人への想い◆その一


絆を深めた恋歌の数々

 人は感動・共感・尊敬・感謝・愛情・孤独・・・さまざまな想いを心に秘めています。そんな心の中を、時には花に、時には月や風に映し、わずか三十一文字に描いた百人の心を集めたものが『小倉百人一首』です。八百年余りの長きにわたり私たちを魅了し続け、その和歌のひとつひとつにどんな気持ちを込めて、どんな想いを伝えようとしたのか、日本の古典や和歌を専門に研究されているフェリス女学院大学の谷知子先生にお話を伺いました。


人生や慈しみを表現する言の葉
恋心を四十三首の和歌に託して

 恋というのは相手を想う心。心は目に見えないけれども‟人は恋することではじめて人間らしい心を知っていく”という和歌もあるように、平安時代はとても恋を大切にしていた時代で、恋というものが人が人となる原点だと考えられていたようです。

 『小倉百人一首』も四十三首が恋歌。そして百首には百の心の型がある。読んでいると純粋な心の在り方に近づいていくような気持にさせられる歌ばかりです。

 人の命には必ず最後が訪れ、そして恋にも必ず終わりがあります。なかでも失恋や別れなど悲しい歌が多いのは、永遠の恋はないことを知っていたからでしょう。人の想いや絆を象徴するものが恋歌だったと思っています。

 そんな『小倉百人一首』四十三首の恋歌から、人生への想いを重ね合わせた印象的な、片思いの歌・忍ぶ恋の歌・別れの歌を選んでみました。


景物の心象を詠み込み
言葉以上に心をゆさぶる歌

◆片思いの歌


みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに

[小倉百人一首 第十四番 河原左大臣]
 

【現代語訳】
陸奥のしのぶもじずり(の乱れ模様)のように、誰のせいで思い乱れはじめてしまったのでしょう。私自身のせいではありませんのに。(みんなあなたのせいですよ。)

 美しい姉妹に出会い、ときめく想いを「しのぶもぢずり」という着物の刷り柄の乱れ模様になぞらえて‟あなたのせいでこうなっているんだ”と訴えた歌。

 自分の恋心を強調するために歌にして見せた、恋の初期段階によく用いられた方法です。これは片思いの歌でもあり初恋の歌でもあります。初恋の意味も今とは異なり、昔は恋の初期段階のことをいいました。まだ相手のこともよくわからない頃には、目に見えない心を目に見えるものに託して伝えるのが一番分かりやすいと考えたのでしょう。心を景物に表すことで言葉以上に共感を誘い、より強く心を寄せる気持ちを相手に届けたかったのだと思います。


心の内に秘めた想いと
女の強さを和歌に込めて

◆忍ぶ恋の歌


玉のをよ たえなばたえね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする

[小倉百人一首 第八十九番 式子内親王]
 

【現代語訳】
(私の)命よ、絶えてしまうものなら絶えてしまっておくれ。このまま生き永らえていくなら(ますます恋心が強くなって)、心に秘めていることが弱ってしまうかもしれない。それでは(人目について)困るから。

 自分の命を引用して強い想いを表し‟恋心が知られるくらいならいっそ死んだ方がい”という、せっぱつまった気持ちを詠んでいます。

 後白河院の皇女で、十一歳から二十一歳まで斎院(京都の上賀茂・下賀茂神社の神様にお仕えする女性のこと)として生きていた式子内親王。女性でありながら世間体を意識し、自分の命より社会的な立場を貫いた強い姿勢が感じられます。

 斎院という地位は、結婚どころか男性と会うことも禁じられていました。そのような立場で公にできない恋をしていたのではないかという多くの詮索もされてきましたが、現実には恋なんてしていなかったからこそ、歌の中で自分の心の内を発露していたのかもしれません。


ままならぬ心を和歌にのせ
遠く想いを馳せて伝える歌

◆別れの歌


いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな

[小倉百人一首 第六十三番 左京大夫道雅]
 

【現代語訳】
(逢うことをさえぎられて)今はただ、あなたのことを思い切ってしまおうということだけを、人づてでなく、伝えする方法があればよいのになあ。

 この歌は男でありながらも未練の気持ちを伝えた別れの歌。別れにも種類があり、一時的な別れは「後朝」といい、恋人同士がともに過ごした翌朝、重なっていた衣が別れるさまを表しています。もう一つはこの歌のような二度と会えない永遠の別れ。

 不良少年だった藤原道雅が三条院の皇女で伊勢神宮の斎宮を務めていた当子内親王に恋をするが、その仲が父の三条院に知られて引き裂かれてしまう。当子内親王が出家する前に道雅が詠み送ったのがこの歌です。最後のひと言だけでも伝えたいという、やるせない心情が込められています。

 この歌を送ったあと、当子内親王は二十三歳で亡くなり、道雅は別の女性との間に子供がいたが、これがきっかけで離婚したといわれています。


和歌で伝える心模様

 このように『小倉百人一首』の恋歌は、ハッピーなものよりも悲しくせつない歌が多いのですが、これは困難が多い人生で、当時の人々は和歌によって慰められ、共感し、生きる力を与えられていたのではと思います。

 そして恋の作法も今とは違います。男と女が顔も見ず会わないうちから歌のやり取りで恋が始まり、会ったときにはもう強く心を通わす仲になる。歌で何度も恋心を伝えてから、会うに至るわけですから、いかに恋する心を的確に歌に詠んで相手に伝えるかが重要なことでした。

 和歌は心と心、人と人との絆を繋ぐ大切なコミュニケーションツールだったことが、『小倉百人一首』の恋歌を読んでいるとよくわかります。