読み物

をぐら歳時記

想いを伝える

『小倉百人一首』が伝える自然への想い◆その二


自然への愛を歌に託して

 『小倉百人一首』には、人の心や人間模様を自然に映して詠まれた和歌が多く存在します。

 今回は「自然との絆」をテーマに、平安期の人々は自然とどのように関わってきたのか、また和歌に映し出された自然に込められた思いについて、日本の古典や和歌を専門に研究されているフェリス女学院大学の谷知子先生にお話を伺いました。


月を愛する人に、季節を恋人に。
自然は親しみのある存在でした。

 東洋や日本は、自然と人間を対立するものととらえる西洋と違い、共存、同化しようとしてきました。古典和歌においても、自然を人間になぞらえて詠む擬人法や、人間社会の物に喩える見立ての技法があります。月を愛する人に喩えたり、美しい春や秋が去っていくことを、まるで恋人との別離のように嘆く歌も数多く詠まれています。

 和歌の素材としての自然も、かなり限定的です。荒々しいものは避け、優美なものしか詠まれません。人間社会になじむような題材を選び抜いているのです。奇抜な動物や植物は好まれず、伝統的な「桜」「梅」「萩」「ほととぎす」「雁」などがこぞって詠まれたのです。そこには、厳しい美意識が存在していました。

 このように、人々は様々なかたちで自然と人間を引き寄せて和歌に取り入れていました。その根底には、自然への愛が存在しています。花や季節をまるで恋人のように慈しみ、自然を人間社会のものに見立てる和歌は、自然を親しみのある、愛する存在として受け入れる意識の表れです。

 『小倉百人一首』の中には、自然や四季(春夏秋冬)を詠んだ和歌が三十二首あります。

 その中から、自然への愛がよくわかる歌を紹介します。


愛する人に会えない切ない思いを
月になぞらえて詠んだ歌



めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな

[小倉百人一首 第五十七番 紫式部]
 

【現代語訳】
やっとめぐり逢って、見たのが月かどうかもわからないうちに、雲に隠れてしまった夜半の月よ。同じように、久しぶりに出会ったのに幼友達かどうかわからないうちに、姿を隠してしまいましたね。

 幼友達だった女性に久しぶりに出会ったのに、ほんの少しの時間で、月と競うようにして去ってしまったことを嘆いた歌です。「めぐりあひて」「雲がくれにし」は、ともに月と友達の両方が主語となります。表向きは月を詠んでいるように見えて、この月は実は友達の比喩です。愛するものがふと見えたかと思うとまたすぐに姿を消してしまうもどかしさ、切なさを、月になぞらえて表現した歌です。月という自然への信愛の気持ちが伝わってきます。


「有明の月」と「ほととぎす」に
別れの未練の心情を重ねて詠んだ歌



ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただありあけの 月ぞ残れる

[小倉百人一首 第八十一番 後徳大寺左大臣]
 

【現代語訳】
ほととぎすが鳴いた方角を眺めると、空にはただ有明の月だけが残っていた。

 「ほととぎす」は、『万葉集』の時代から多くの歌に詠まれてきた人気の鳥です。中でも、夏の夜その声を待ち続け、明け方になってやっと聞くという行為が、とても風雅なものとされていました。また有明の月といえば、男性が女性のもとで一夜を過ごし、夜が明けて帰ってゆくときに見る風景で、別れの未練と強く結びついた景物だったのです。この歌は、夏の夜明けを詠んだ歌ですが、有明の月やほととぎすを描くことで、妖艶な印象を醸し出しています。日本の和歌における自然はただの自然ではありません。人間と様々な心情を共有し、強い絆を感じさせてくれる存在だったのです。


色変わりしない常緑樹の松にじっと待ち続けるイメージを重ねて



立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば いま帰り来む

[小倉百人一首 第十六番 中納言行平]
 

【現代語訳】
あなたとお別れして、私は因幡国に行きますが、因幡山の峰に生えている松のように、私を待っていてくれると聞いたならば、すぐにでも帰ってきましょう。

 この歌の「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。「待つ」行為は木の「松」と直接関係はありませんが、色変わりしない常緑樹の松が、じっと待ち続けるイメージを有しています。不安な旅立ちのときに、変わることのない悠久の自然は、人々をどんなにか慰め、励ましたことでしょう。

 松や花のように、約束していたかのように自分を待っていてくれる、または毎年美しい花を咲かせてくれる。無常の世を生きる人間にとって、このような自然観は切なる願いでもあったのです。


人の世は無常で、移り変わっても
自然は変わらない、変わらないでほしい。

 このように自然を人間と親しいものと見なしながらも、一方で両者が異なる存在であるという認識も同時に持ちあわせていました。それは、自然への敬意。様々なかたちで表現されますが、その一つとして、自然は変わらない、永遠のものだという考え方です。人間の願望と言いかえてもいいでしょう。人の世は無常で、移り変わっていくけれども、自然はいつになっても変わらない、いや変わらないでいてほしいという願望です。