をぐら歳時記
四季と共に暮らす日本人の知恵と伝統行事
『自然との絆 日本のこころを訪ねる』◆その二
夏越の祓と祇園祭
打ち水、団扇、蝉しぐれ。風鈴、お盆、夏祭り、日本の夏・・・。季節の節会が各地でおこなわれる。そんな日本の夏の伝統的な行事の中から今回は夏越の祓と京都の祇園祭について春号に続いて嶋田義仁さんに語っていただきました。
京都の夏
京都の夏はどちらかというと、湿気がこもり、蒸し暑い。木陰にはいっても涼しくない。
散歩でもするしかないと、よく法然院を訪ねた。法然院は山寺風の寺で、山門につづく竹林の中の長い参道が涼しそうにみえた。しかしそこがかえって暑苦しいのであった。
そんな京都にもからりと晴れた夏の日があった。祇園祭の山鉾巡行がおこなわれる頃だ。その頃には、梅雨が必ず終わる。
夏越の祓
梅雨が終わるころ、京都では夏越の祓や御霊会がさかんにおこなわれる。祇園祭も御霊会だった。
夏越の祓は、青々としたアシの茎で編んだ茅の輪をくぐり、邪気をはらう。
育った稲が開花し受粉期をむかえるのは、この頃だ。稲の花は可憐で、開花期も短い。その間に受粉しないと、稲の稔りはない。しかしこの時期には、長雨による気温低下や、激しい雨があって、開花不足や受粉不能がおこる。病虫害も発生する。水害もある。稲づくりで最も神経を使うのはこの時期だ。
娘に悪い虫がつかないよう親は心配するが、「悪い虫」というのはこの時期の稲をおそう災厄の比喩だ。稲の災厄をはらう努力が、夏越の祓や御霊会をささえた。
御霊会
御霊会とは、恨みをいだいてなくなった死者の怨霊を祓う儀礼である。ただごとでない。わたしの故郷の甲州に御霊会はない。京都には怨霊が跋扈していたらしい。
ムべなるかな。京都は千年の都である。権力闘争の場だった。恨みをいだいて死んだ人も多かったであろう。
御霊の起源は、平安京開始期にまでさかのぼり、御霊の中心は、なんと、桓武天皇の兄弟や子、夫人だった。桓武の父光仁とともに、皇統は天武系から天智系にかわった。桓武は、天武系が築いた平城京を去り、長岡京(七八四)、平安京へと遷都した。(七九四)これは天皇制内革命だった。しかし、そこには、桓武自身の兄弟や夫人、子の反逆が積み重なった。本当に謀反であったかは疑わしい。朝廷貴族藤原氏の暗躍があった。しかし謀反とされた。
桓武天皇親族の謀反
まず、光仁天皇夫人井上内親王が光仁天皇を呪詛する事件があった(七七二)。光仁の姉君への呪詛も疑われ、井上内親王と子の他戸皇太子が廃后廃皇太子された。かわって皇太子になったのが、高野新笠を母とする山辺親王(桓武)だった。
桓武即位後には、長岡京遷都責任者藤原種継が暗殺される事件があり(七八五)、首謀者が桓武の同母弟早良親王とされた。早良親王は東大寺と関係が深く、長岡京移転に反対だったという。
平城天皇時代には、平城天皇の異母弟伊予親王とその母の桓武夫人藤原吉子の謀反があった(八〇七)。
さらに薬子の変が続いた。嵯峨天皇に譲位した平城上皇は平城京復帰をねがった。すると上皇の愛妾薬子が、兄藤原仲成とともに嵯峨天皇に叛いた(八一〇)。
御霊会の起源
これらの謀反には多数の皇族貴族が連座した。その恨みは尋常でなかったであろう。そして非業の死をとげた、桓武の兄弟や子、夫人は、御霊となって、天災や疫病をひきおこしていると考えられた。
早良親王に「崇道天皇」の名を与えるなど、官職面での事後配慮もあった。しかし御霊のたたりはおさまらず、これら御霊を祓い清める御霊会が、貞観五年(八六三)にはじまった。
御霊会は仏教式におこなわれ、祇園祭も祇園御霊会とよばれていた。祇園という語も祇園精舎に由来する。八坂神社も祇園社とよばれ比叡山延暦寺の末社だった。しかし明治の神仏分離令(※1)で、仏教が分離され、八坂神社という名になった。
神社にも、八所御霊(※2)を祭る上下御霊神社がある。
祇園御霊会の背景にあった葬送文化
しかし祇園御霊会の起源を考えるにあたっては、もう少し広い観点が必要だ。祇園御霊会を支えた町衆は、朝廷権力者ではなかったからだ。
広大な葬送地が京都郊外にはあった。西郊にあった化野、洛北の蓮台野、東山の鳥辺野だ。これらは庶民の葬送地で、はじめは、遺体はほったらかしの風葬だった。
そのなかで京都の街に最も近かったのが鳥辺野で、これは鴨川以東の地域だった。祇園の地も、葬送地のはずれにあり、祇園社も死者供養の施設としてはじまった可能性が大きい。この地は歌舞伎など芸能文化の発祥地ともされている。そこから祇園のような花街もうまれた。
娯楽満載の祇園祭
これらは、総合して御霊会文化として理解できる。御霊会は陰気な宗教儀礼ではなかった。経は読むが、歌舞音曲、弓矢、相撲など娯楽満載の祭り騒ぎだったからだ。太鼓・鉦などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・和讃をとなえた踊念仏も同じ類だ、
祇園祭は、京都の町衆にとっては、祇園社にまつられた無縁仏もふくめた死霊が華やかな音曲とともに山鉾にのって町衆の家々にもどり、また祇園社にもどってゆく儀礼であった。千年の都が生み出した死や穢れ、罪、恨みなどが、こうした華やかな祭りへと昇華され、葬送の地は祇園という仏教のパラダイスの名でよばれるようになった。千年の都の深い知恵がここにある。
- ■用語解説■
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※1 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)
1868年(明治1)明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。奈良時代から続いていた神仏習合の習慣を禁止して、神道と仏教を区別させたことをいう。 -
※2 八所御霊(はっしょごりょう)
御霊会の最初に御霊神とされたのは早良親王、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが、藤原広嗣が加えられるなどして六所御霊と総称され、後に吉備真備(きびのまきび)、火雷神(火雷天神)が加わって<八所御霊>となり、京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたったとされる。