をぐら歳時記
想いを伝える
『小倉百人一首』が伝える人生への想い◆その四
人生の意味を和歌に訊ねて
『小倉百人一首』には恋愛や自然を詠んだ歌のほかにも老いを見つめる歌、人の世の儚さを偲び、無常を憂いて詠んだ歌もあります。
今回は「人生との絆」をテーマに、平安歌人の生命観や人生観について、日本の古典や和歌を専門に研究されているフェリス女学院大学の谷知子先生にお話を伺い、人と人の絆、人生の絆について考えます。
人の営みの折節にしあわせを祈り
儚い人生を懸命に生きた人々
『小倉百人一首』は、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの代表的な歌人百人の和歌を、同じ歌人である藤原定家が一人一首ずつ撰んでまとめた秀歌撰です。その中には、人生の無常観、命の儚さといった、まるで人生の冬を憂うような歌もあります。
人は生まれて成長し、大人になり、働いて恋をし、子供を産み、育て、やがて年老いていく。いつの時代もこうした人の営みの本質は変わりません。文明や医学が進歩しても、人は生老病死から逃れられないのです。しかも人生は山あり、谷あり。思うようにいかないことや苦しみ悲しみを乗り越えて生きていかなければなりません。
そんな時こそ当時の人々は和歌に想いを託し、時には悟り、受け入れてきたのでしょう。
人生は儚く、無常なもの。だからこそ人と人との絆を重んじ、短い人生を懸命に生きようとする姿勢は、現代よりも王朝の時代の人々の方がより強かったのかもしれません。
出会いと別れを俯瞰し、
人生の縮図や無常観を詠んだ歌
これやこの 行くも帰るも わかれては
知るも知らぬも あふ坂の関[小倉百人一首 第十番 蝉丸]
- 【現代語訳】
- これだよ、これ。これがあの旅立つ人も、旅から帰る人も、知っている人も、知らない人も、別れてはまた逢う、逢坂の関だよ。
逢坂の関は、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境にある関で、京都から東海・東山・北陸へ旅する人が通過する、交通の要所でした。蝉丸はこの近くに住んで、人々が往来する様子を眺めていたのか、それとも自身も関所を行き交ったのか。関所の往来になぞらえて、人間の出会いと別れを詠っています。「会うのは別れの始め」。つまり生きていればたくさんの新しい出会いがあるが、また多くの別れもあるといった「会者定離」の道理を歌で表しています。
多くの人々が行き交う様子を見ていると、賑やかさとは裏腹に無常観や儚さを感じたのかもしれません。
希望を求めて山奥へ
鹿の鳴き声に憂いを重ねた歌
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる[小倉百人一首 第八十三番 皇太后宮大夫俊成]
- 【現代語訳】
- ああ、この世の中には逃れる道などないのだなぁ。思いつめて入ったこの山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いているようだ。
撰者である藤原定家の父、俊成が二十七歳の時に詠んだ「述懐百首」から撰んだ歌です。「道」というのは、世の中のつらさを逃れる道、方法という意味で、平安時代には世俗を離れてお坊さんになる、出家することでした。どこへ行っても悲しみから逃れることができない。ならば俗世間を捨てて、山の奥で庵を結べばきっと救われると、山の奥へ入ったが、鹿の鳴き声が聞こえてきて、世の中には逃れる道は無いんだと悟り詠んだ歌です。深山への憧れ、響き渡る哀切な鹿の声、深い絶望、こうした風景に定家は父親を見出していたのかもしれません。撰んだ父の一首は、息子から見た父の本質であり、素顔だったのでしょう。
誰にも訪れる老いを憂い
長生きの寂しさを詠んだ歌
誰をかも しる人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに[小倉百人一首 第三十四番 藤原興風]
- 【現代語訳】
- 年老いた私は、いったい誰を知人とすれば良いのだろうか。長寿で知られる高砂の松とても、昔からの友人というわけではないので。
長生きは理想と言えますが、昔のことを語り合う知人が一人二人といなくなっていくことは、とても寂しいことだと詠んでいます。高齢社会、情報社会の今でさえ老いてからの一人暮らしは寂しいものですが、昔はさぞ孤独感がつのったことでしょう。老翁は、自分よりも長寿で孤高を保っているかのように生い立つ松に語りかけるも、松さえ昔からの友というべき存在でもないと気づき、再び孤独へと陥っていきます。長寿には長寿の寂しさや苦悩があるもの。定家が『小倉百人一首』を撰んだのは七十歳を超えてからのこと。この歌に深く共感し、我が人生の苦渋をかみしめながら、ゆったりと振り返ったのかもしれません。
和歌を通じて人生と向き合い
乗り越えてきた人々
人間はほかの動物と違って理想や美という概念を持ち、旅や祝祭というハレのときを持つなど文化的な行動をする存在です。こうした思考や概念があるからこそ、生きるということに意味を見出そうとし、それゆえに矛盾や、苦しみ、孤独にも向き合ってきました。だからこそ和歌の世界では、あえて寂しさや悲しみを好んだり、美化することで乗り越えてきたのかもしれません。和歌の存在は当時の人々の支えとなっていたのだと思えます。