読み物

をぐら歳時記

和歌が紡ぐ美意識を訪ねて

『小倉百人一首』の余情と美意識◆その三(一)


「花鳥風月」に感化されて詠む

和歌とは、人の心を種として、折々の想いが様々な言葉となって現れ出たものですが、より共感を得るために、また想いを伝えるために、多くの工夫がなされています。それ故に「余情」が生まれるのでしょう。
今回は、古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、「余情」という観点で、和歌の背景から言葉選びや手法、また和歌に隠されたメッセージや美意識を読み解いて紹介していただきます。


ちはやぶる
  神代もきかず
     竜田川
 からくれなゐに
    水くくるとは

[小倉百人一首 第十七番 在原業平朝臣]
 

【歌意】
不思議なことがあった神代にも聞いたことがない。竜田川に真っ赤な紅葉が浮かび、紅色に水を絞り染めにしているということは。
 

散りゆく儚さに感じる、美しい瞬間

 和歌には、日本人が育んできた美意識がよく現れています。日本的な美意識のエッセンスが和歌だと言ってもよいでしょう。日本人が四季折々の花鳥風月をどのように見てきたか、愛してきたかは、和歌を読むとよく理解できるのです。

 今回は、秋の紅葉と月の歌を取り上げて、日本人の紅葉と月に対する視線を見てみましょう。

 神様が様々な不思議を起こした神話の時代にも、こんなことは聞いたことが無い、といいます。竜田川(※1)の川面を覆うように散り敷き流れる紅葉で水が真っ赤に見える。まるで水を赤く絞り染めにしているようなその情景が、不思議でたまらないというのです。

 晩秋の冷たい空気の中、色彩が鮮やかに映える散る前の紅葉も当然美しいのですが、日本人は、散った後の紅葉にも目を留め、愛してきました。散った紅葉は、風に舞い、砕け、汚れて色あせてしまいますが、それまでの短い時間、散った紅葉は美しさをとどめ、秋の景色を形作るのです。さらに、散って川面に浮かぶ紅葉は、一瞬の美しさを人々の目に焼き付け、流れ去ってゆきますから、その儚さがいっそう際立ちます。

 そもそもこの歌は、屏風に描かれた、竜田川を紅葉が流れている情景を和歌に詠んだものでした。業平が実際に目の前に竜田川の風景を目にしながら詠んだ歌ではありません。屏風の中に描かれた絵は、紅葉が川面に散って流れる情景の最も美しい瞬間を切り取ったものです。業平はその瞬間を「神代にも聞いたことがない」と、やや大げさな言い方で表現しました。それによって、この情景が特別で、めったに目にすることができない素晴らしいものであることを強調し、心に深く刻みつけようとしているのです。


月みれば
  千々に物こそ
     かなしけれ
 わが身ひとつ
    秋にはあらねど

[小倉百人一首 第二十三番 大江千里]
 

【歌意】
月を見ていると、様々に物事が悲しく感じられることだ。秋が来るのは世間一般のことであって、私ひとりを悲しませるためにやって来るわけではないのだけれど。
 

物思いにふける秋へと誘う月の光

 現代でも、中秋の名月といって、秋には月見を楽しむ風習が残っています。中秋の名月は、旧暦では八月十五夜のことです。月が最も美しい季節が秋だというのは、和歌における基本的なとらえ方です。

 現代のような電灯などのない時代、夜の闇はいっそう濃く暗く、夜空に輝く月は頼もしく、常に意識されるものでした。月を詠んだ和歌はおびただしくありますし、寂しさ、切なさ、恋しさ、望郷・・・・・・様々な思いが月に寄せられています。

 では、この歌で詠まれている感情はどのようなものでしょうか。月を見たときの感情の揺れが、どのような工夫で詠まれているかをみてみましょう。「千々に」は、数を表す言葉として「一つ」と縁語(※2)になっていて、悲しみが新たな悲しみを生み出してゆき、心がどうしようもなく乱れてしまうことを表しています。

 現代の我々にとって秋とは、芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋・・・・・・涼しく過ごしやすい、様々なことを楽しむ季節です。しかし、古典の和歌の世界ではそうではありません。秋とは、物思いを誘い、悲しい気持ちにさせる季節なのです。千里も、秋が来てただでさえ悲しいのに、月によっていっそう悲しみが増していると詠んでいるのです。美しい月を見れば心が慰められる、というわけではないことが、この歌からわかります。月とは、歌人の中の感情を増幅させるものであったのかもしれません。

《用語解説》
※1 竜田川(たつたがわ)
奈良県生駒郡斑鳩町に流れる川。
※2 縁語(えんご)
和歌などの修辞法のひとつ。一つの言葉に意味内容上で関連のある言葉を使い表現に面白みをつけること。