読み物

をぐら歳時記

和歌が紡ぐ美意識を訪ねて

『小倉百人一首』の余情と美意識◆その四(一)


想像により昇華させる美意識

和歌とは、人の心を種として、折々の想いが様々な言葉となって現れ出たものですが、より共感を得るために、また想いを伝えるために、多くの工夫がなされています。それ故に「余情」が生まれるのでしょう。
今回は、古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、「余情」という観点で、和歌の背景から言葉選びや手法、また和歌に隠されたメッセージや美意識を読み解いて紹介していただきます。


心あてに
  折らばや折らむ
     初霜
  置きまどはせる
     白菊の花

[小倉百人一首 第二十九番 凡河内躬恒]
 

【歌意】
もし折るというならば、推測で折ってもみようか。初霜があたり一面に降りて、霜なのか白菊なのか、さっぱりわからなくなってしまっている、そんな白菊の花を。
 

霜と白菊が織りなす白色の競演

 和歌は言葉によって情景を表現します。色彩や音の美しさを言葉で表し、読者にそれを想像させるのです。

 百人一首に詠まれた色彩の表現に注目すると、白色の美しさを詠んだ歌が多いことに気づきます。白は不思議な色です。赤や青や黄色のように、鮮やかで華やかな色彩ではありません。しかし日本では古くから、白色を高貴な美しさを持つ色として愛してきました。華やかで目を引く色彩だけではなく、白色も愛したのが日本人の美意識だったと言ってよいでしょう。白色を詠んだ歌を取り上げ、その美しさをどのように表現しているか見てみましょう。

 晩秋の早朝、庭一面に降りた初霜と白菊の花が見分けもつかなくなるくらいの、白一色の光景です。早朝の冴えた空気の中で、淡い陽光を反射し、霜がきらきらと輝く様も想像できます。輝く白色の光景は幻想的です。

 初霜の白と菊の花の白とを重ね合わせて、白い情景を表現しているのが、この歌の工夫です。菊の白色が霜のようだ、という見方(こうした比喩表現を「見立て」といいます)は、中国の漢詩によく詠まれたものでした。躬恒は漢詩から得た「白菊が霜のように白い」という発想を踏まえて、この歌を詠んだのでした。

 近代短歌の歌人である正岡子規は、この歌について、嘘の趣向だ、初霜が降りたくらいで白菊が見えなくなるわけがない、と批判しました。霜と菊がまぎれてしまうというのは、確かに実際にはありえないかもしれません。しかし、こうした大げさとも思える表現の中に、霜と菊の白色の美しさを強調しようとする意図があるのです。躬恒は、単に菊が咲いた晩秋の庭を写実的に詠もうとしたのではありません。早朝の晩秋の庭で霜と白菊が織りなす白色の競演と、その美しさの中で幻惑され、足を止める主人公の視線こそが、躬恒の表現したかったものなのでしょう。


朝ぼらけ
  有明の月
    見るまでに
  吉野の里に
    ふれる白雪

[小倉百人一首 第三十一番 坂上是則]
 

【歌意】
ほのぼのと夜の明けていくころ、外をみると有明の月がさしているのかと思うほどに、一夜のうちに眩しいばかりの白雪が、吉野の村里一面に降り積もっている。
 

有明の月のように光り輝く白雪

 もう一首、白一色の世界を詠んだ歌を取り上げます。

 有明の月は、陰暦の二十日以後、夜遅くに出て朝方まで残っている月のことです。冬の明け方といえば、薄暗い時間が長く、ゆっくりと空が明るくなってゆきます。「朝ぼらけ」とは、日の出前に空が明るくなり始め、まだ薄暗いけれど物を見分けられるようになるくらいの時間帯を指す言葉です。寒い冬の明け方、外は白く輝いています。まだ有明の月が残っているのかと思うと、それは早朝の淡い光を反射して輝く雪の白さだった、というのがこの歌が詠んでいる情景です。

 吉野の里とは、現在の奈良県吉野郡の、吉野山の麓にある里を指します。吉野は人里離れた雪深い土地であるというイメージがありました。その吉野で迎える朝は、静かで寂しいものでしょう。夜の間の月光から、朝方の雪へ。早朝の雪には、誰も踏んでいないまっさらな美しさと、溶けてゆく前の冷ややかな緊張感があります。今はもう消えてしまった月の光までも想像させて、雪の白さと冷たい輝きが描かれています。

 初霜、白菊、月光、雪、どれも一つずつでも美しいものです。しかし、それらを組み合わせ、重ね合わせることによって、白色は美しさを増します。折り重なる白色の美には、日本人の繊細な美意識を見て取ることができるのです。