をぐら歳時記
和歌が紡ぐ美意識を訪ねて
『小倉百人一首』の余情と美意識◆その四(二)
『小倉百人一首』が導いた歌仙絵の道
『小倉百人一首』に出会い、和歌の持つ余情と美意識に魅せられて活動されている方々に登場いただき、和歌の奥深さをどのように感じ、創作などに反映されてきたのかについて、ご紹介していきます。
今回は、日本で唯一の歌仙絵師(絵・和歌・仮名書の融合)として活躍されている崇石様に、『小倉百人一首』との出会いと共に、ご自身の取り組みについて語っていただきました。
書を極めるために選んだ『小倉百人一首』
小学一年から書道を習い始めて二十四歳で師範を取得し、『崇石(あがめいし)』という雅号を授かりました。自分が偉くなった気がして、半紙に「無」と書こうとしたのですが、様々な手本が頭に浮かんで迷ってしまったのです。手本にとらわれず書くには、どのような練習をしたら良いか思案し、選んだのが『小倉百人一首』でした。
そこには日本人の深い精神性と美意識がありました。美しい言葉と緩やかな調べの和歌、そして、まるで水が流れるかのような仮名書。感動した私は、四分の一の半紙を一万枚用意し、「百首・百回・百日」と練習を繰り返しました。百日目が過ぎて、以前より上手くなった書を誇らしく思い、周りの皆に見て貰ったところ、返ってきたのは「読めない」という返事でした。
日本の伝統芸術『歌仙絵』を甦らせる
仮名書に興味を持って貰うためには、どうすれば良いか悩んでいたある日、ふと“和歌を絵にしてみよう”と思いついたのです。そこで、我が家に昔からあった「かるた」を参考にして描いてみることにしました。
半紙に鉛筆で下絵を描き、色紙に写し取り、仮名用の筆を使って絵の具で色をつけていきます。墨文字が映える色を意識しながら背景を塗り、人物の服、さらに手が震えないようにして顔の輪郭・唇・目を描き入れて絵を完成させます。それから墨を摺って和歌を書き入れるのですが、まずは最初の一文字を書く位置、行を変える位置などを決めていきます。九十秒程の張り詰めた空気の中、絵と和歌と仮名書がひとつになって「歌仙絵」が現代に甦ってくるのです。和歌と歌仙絵は切っても切れない深い関係です。歌人の姿を描き、和歌を書き添えた日本の伝統芸術・歌仙絵は、浮世絵よりも古いのです。歌仙絵に取り組んで三十年。私は、絵・和歌・仮名書を融合させた日本でただ一人の『歌仙絵師』になりました。
生命の際にみる日本人の美意識
平安時代には歌人たちが桜を愛でる花見の宴を催し、数多くの桜の歌が歌われています。日本人にとって桜は花の美しさだけでなく、心の象徴のような特別な存在になりました。その中で春の歌かと思われる和歌ですが「雑(その他の歌)」に分類されている一首の歌仙絵をご紹介します。
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり[小倉百人一首 第九十六番 入道前太政大臣]
- 【歌意】
- 花を誘って散らす嵐が吹きおろす庭には、雪のように桜の花が降るけれど、古りゆくものは花ではなくて、このわが身であるのだよ。
強風が吹き、一枚一枚花びらが地上を探して舞い散る、限りある生命の様子を描きました。生と死の境が織りなす美しい自然の気配に日本人は心をときめかせ、その生命の際に美意識を見い出すのでしょう。散らないで欲しいという願いも叶わず、我が生命の際を感じずにはいられない、そんな切なさを表現しました。
『三十一文字』に隠された余情
『小倉百人一首』の和歌は、五七五七七の三十一文字で綴られており、なぜか割り切れない数字となっています。最初の五文字は歌全体を導きます。それを証明するかのように、その五文字を思い出せば、後はすらすらと出てくるのです。また、最後の七文字は、歌人の想いで結ばれています。四十三首ある恋の歌の中で、ひときわ情熱的な一首の歌仙絵をご紹介します。
難波潟 みじかき芦の ふしのまも
あはでこの世を すぐしてよとや[小倉百人一首 第十九番 伊勢]
- 【歌意】
- 難波潟に生えている芦の、あの短い節と節の間のように、ほんの短い間でいいから、あなたにお逢いしたい。でも、それさえ叶わず、この世を空しく終えてしまえと、あなたはおっしゃるのでしょうか。
あなたに今すぐ逢いたいと心の奥から叫びながらも、本当は「愛することを教えてくれたのはあなたなのに」という想いを秘めた表情を描きました。「すぐしてよとや(私にこのまま人生を過ごしてしまえと言うのですか、の意)」は、相手をなじるような表現ですが、それとともに相手への強い思慕の情が込められた言葉でもあります。五文字・七文字・三十一文字の割り切れない数とは、同様に割り切ることのできない複雑な胸中そのものなのです。ここに込められた想いは、時代や年齢、また歌を理解する人によっても違ってくるのでしょうが、割り切ることができない余る情(こころ)は感動を生むもの。三十一文字の秘密がここに隠されていると思うのです。
歌仙絵師としての道を拓いてくれた『小倉百人一首』との出会い。私は、この日本の伝統芸術に誇りを持ち、昭和、平成、そして令和へと、日本人の魂が込められた歌仙絵の魅力を伝え広めていくことが出来るよう、今後も活動していきたいと思います。