をぐら歳時記
『小倉百人一首』に込められた想い
想いを花鳥風月にのせて◆その一
掛けがえのない時に心を寄せて
『小倉百人一首』は、想いを伝えるための手法として、四季折々の趣きのある景物(花・鳥・月・紅葉など・・・)を上手く使って、気持ちをしっかりと伝える工夫がなされています。景物に作者の溢れ出る感情や気持ちを代弁させて表現してきました。
今回は、古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、作者の想いが、景物を通してどのように表現されているかを読み解いて紹介していただきます。
儚さがあるからこそ、愛おしい
日本には四季があり、季節それぞれを花鳥風月(景物)が彩ります。花鳥風月は和歌にとってだけではなく、日本文化に欠かすことのできない材料です。現代でも私たちは、春になればお花見、秋になれば紅葉狩りにと、美しい景色を見に行きます。しかし四季の景物は、単に美しく目を楽しませるだけのものではありません。日本人は花鳥風月に心を寄り添わせ、心をそれらに託して和歌に詠んできました。日本人がどのように花鳥風月をとらえ、和歌に詠んできたのかをみてゆきたいと思います。
「お花見」といえば、桜。桜は日本の国花でもあり、日本人の桜に寄せる愛情は、特別なものがあります。春になれば、綻んだ桜のつぼみや観光地で見ごろを迎えた桜の様子がニュースで映し出されます。
では、桜の花の魅力とはどこにあるのでしょうか。華やかに薄紅色の花を咲かせる様子は、美しさ以外の何物でもありません。しかし、日本人が桜を愛した理由には、桜の美しさそのものだけではでなく、美しさが長くは続かないという点にあると言えます。
桜が満開に咲き誇るのは、どれほど長くても一週間から十日程度。強い風が吹いたり、雨が降ったりすれば、咲いている期間はもっと短くなります。だからこそ、満開の桜に出会えた時、人はその幸運を嬉しく思うのでしょう。
ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ[小倉百人一首 第三十三番 紀友則]
- 【歌意】
- 日の光がのどかに差している春の日に、桜の花はどうしてこうもあわただしく散るのだろうか。
一方で、程なく散ってゆく未来を思い描いて寂しさも感じます。永遠でないがゆえに、限られた間の美に心を傾けて愛おしみ、失われることを惜しむ。日本人の桜に対する愛情は、日本人が内包する「無常観」(何物も永遠ではないとする仏教思想)と表裏一体なのです。
友則の歌は、春のうららかな光の中、桜の花が散るのを眺めながら、「しづ心なく花の散るらむ」と詠んでいます。「しづ心なく」とは、落ち着かないという意味です。のどかな春の光を浴びながら穏やかな気持ちで過ごしているのに、桜はあわただしく散ってゆく。今を盛りと咲き誇る桜の花をもっとのんびりと眺めていたいのに、気ぜわしく桜は散ってゆくことを嘆いています。爛漫の桜の花が散るのを惜しむのは、穏やかな春の陽光の中で満開の桜を眺めるその時間が、掛けがえないものであると強く感じているからなのです。
募る想いと育ちゆく葦が織りなす恋心
春を代表する植物として、桜ともう一つ、葦を取り上げます。葦はイネ科の植物で、「ヨシ」とも呼ばれる草です。川辺や湖沼の水流の少ない場所に群生します。難波潟は淀川河口付近の海の古称で、入江に葦が繁る様子が注目をあびて、和歌によく詠まれた歌枕(※1)でした。
難波潟
みじかき葦の
ふしのまも
逢はでこの世を
すぐしてよとや[小倉百人一首 第十九番 伊勢]
- 【歌意】
- 難波潟の短い葦の節と節の間のような、ほんのしばらくの間も逢わずに、この世を空しく終えてしまえというのですか。こんなに私が恋い慕っているのに。
伊勢の歌では、難波潟の葦は節と節の間が短い、そんな短い間でも恋しい人に逢えないことを嘆く歌です。ところが、葦の節と節の間は、意外に短くはありません。茎が細いこともあり、短いという印象は受けないのです。
おそらく伊勢の歌は、春のまだ成長しきっていない葦を詠んだものなのでしょう。葦の新芽を表す「葦の角(つの)」や、芽が伸びて若葉となった「葦の若葉」は、俳句でも春の季語です。青々とした若い葦は、和歌でも春らしさを感じさせる水辺の景物としてよく詠まれたものでした。育ち始めた葦の若々しい様子は、春の生命力を思わせる爽やかな景色だったのです。今後ますます募ってゆくだろう恋心と、これから真っ直ぐに成長してゆく春の葦を重ね合わせた、一途な恋心の歌であると解釈できます。
- 《用語解説》
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※1歌枕(うたまくら)
古くから和歌に詠まれている名所・旧跡で、特定のイメージを持っている言葉。