読み物

をぐら歳時記

『小倉百人一首』翻訳の挑戦

英訳を通して日本文化に出会う◆その二


英訳を通して日本文化に出会う

和歌の修辞などを踏まえ、読み札と取り札のイラストに「絵合わせ」の要素を取り入れた英語の五行詩、百人一首かるた『WHACK A WAKA(ワカワカ)百人イングリッシュ』を作成されたピーター・マクミラン氏。今回は、その翻訳を通して、苦心された点や日本人の価値観・文化等について、感じられたことを語っていただきました。


ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
     ただ有明の ぞ残れる

[小倉百人一首 第八十一番 後徳大寺左大臣]
 

I look out to where
the little cuckoo called,
but all that is left to see
is the pale moon
in the sky of dawn.
 

【大意】
(待ちに待った)ほととぎすが鳴いていたあたりを眺めると、ただ、有明の月だけが残っていた。
【英単語】
○the little cuckoo=ほととぎす  ○pale=青白い  ○dawn=夜明け

余韻から想起される情景

 古典の世界では、ほととぎすは夏の一番の風物詩であり、夜中まで起きて待ってでもその一声を聞きたいと思われる鳥でした。日本人でも外国人でも、現代人にとって、必ずしもほととぎすは身近な鳥ではありませんし、特段思い入れもないでしょう。しかし、この和歌が詠まれ、また読まれた文化圏では、ほととぎすの声を夏の夜の、何より待ち遠しいものと捉えるのが当然の感覚でした。たとえば現代で『サンタクロース』といえば、「冬」「夜」「プレゼント」、そして「待ち遠しい気持ち」が、次々と想起されるように。

 さて『百人一首』に戻ります。今回の歌は、一見すると特に何も起こらないように見えるかもしれませんが、ここまで述べてきたような和歌の世界観の中で見ると見方が変わってくる歌です。

 この歌のほととぎすと有明の月の取り合わせは、この歌の主人公が、一晩中ほととぎすが鳴くのを待っていたのだろうと、自然と想像させます。しかし、待望のほととぎすは、たった一声で飛び去ってゆきます。その声がした方を見上げてみると、ほととぎすは影も形もありませんでした。ただ有明の月だけが変わらずに残っています。

 夜空を舞台に、聴覚と視覚が一体となって醸し出す余韻が、この歌の大切なポイントです。その余韻が見事に響いているからこそ、一瞬だけ存在していた主役のほととぎすが、鮮明に印象付けられるのです。しかし、これほど余韻の強い歌でありながら、「行方」「名残」「形見」といった表現は一切ありません。説明的な表現を避けて、モチーフの積み重ねにより余韻を持たせています。


夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
      雲のいづこに 月やどるらむ

[小倉百人一首 第三十六番 清原深養父]
 

On this summer night,
when twilight has so quickly
become the dawn,
where is the moon at rest
among the clouds?
 

【大意】
夏の夜はまだ宵の口と思っているうちにそのまま明けてしまったというのに、月は雲のどこに宿っているのだろうか。
【英単語】
○dawn=夜明け  ○rest=休む

文化の背景から知り得る感性

 まず上の句を見てみましょう。「宵ながら」とは、直訳すると「宵の状態で、宵のままで」ということ。宵のまま夜が明けるというのは、もちろん現実にはありえません。それほどまでに夏の夜は短く感じられると言いたいのです。

 さてそれでは、その短夜に何があったのでしょう。下の句を見てみると、月が登場しています。しかしその月は「雲のどこに宿っているのだろうか」と言われているのですから、雲の中に隠れてしまっています。和歌では、月は非常によく詠まれるモチーフです。その月が見えないというのはどこかあっけなく、拍子抜けするようでもあり、夏らしい清々しさが感じられるようでもあります。また「月やどるらむ」という言い方は、月を擬人化しており、月に対する親近感を感じさせます。この歌にユーモアを見る人もあれば、月を思う澄み切った心を見出す人もいます。

 ただ、どちらの解釈も、英語圏の読者にはピンと来ないかもしれません。元の歌が淡々としているだけに、そのまま訳すと盛り上がりに欠けるように見えてしまいますし、それなりに和歌に慣れている読者でないと、この歌のユーモアや意外性を感じ取れないでしょう。

 また、雲に隠れて見えない月を見ようとする姿勢も、とても日本的なものです。私は徒然草(※1)百三十七段の「雨に向かひて月を恋ひ…」と通じるものがあるような気がしました。こうした発想は西洋の読者にとってはとても新鮮に映りますが、同時に見慣れないものです。西洋の読者がこの歌に意外性を感じ取れたとしても、それが詩的なものだとは感じにくいかもしれません。私の訳では原文同様「rest」と擬人化して訳したので、若干の親しみと機知は入れましたが、翻訳の難しさを感じました。和歌の英訳では、文字通りの内容だけでなく文化の背景を踏まえて訳さないといけないところに、いつも苦労しています。

 今回の八十一番・三十六番は、今ここにいないものを心で見つめて歌うものでしたが、この発想には日本文化の独自性が見えるような気がします。そしてまた、離れた時代と場所にある歌と歌が結びつき重なってくる、『百人一首』というアンソロジー(詞華集)の楽しみも感じられたように思いました。

《用語解説》
※1徒然草(つれづれぐさ)
鎌倉時代後期に兼好法師が、自身の経験から得た考えや逸話などを書き綴った、二百四十四段から成るとされる随筆集。