をぐら歳時記
『小倉百人一首』に込められた想い
想いを花鳥風月にのせて◆その二
夏の短夜がもたらす心残り
『小倉百人一首』は、想いを伝えるための手法として、四季折々の趣きのある景物(花・鳥・月・紅葉など・・・)を上手く使って、気持ちをしっかりと伝える工夫がなされています。景物に作者の溢れ出る感情や気持ちを代弁させて表現してきました。
今回は、古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、作者の想いが、景物を通してどのように表現されているかを読み解いて紹介していただきます。
ホトトギスの声を頼りに夏を待ちわびる
日本で好まれる季節といえば、昔から春と秋です。寒くもなく、暑くもなく、過ごしやすい気候であるだけではなく、花の彩りや鳥の鳴き声も楽しめる季節です。和歌でも、春と秋の季節を詠んだものが多く、夏と冬はずいぶんと数が減ります。しかし、夏には夏の美しさや、夏ならではの楽しみがありました。
和歌で詠まれる夏の代表的な素材といえば、ホトトギスがまず挙げられます。ホトトギスは古来、日本人に親しまれてきた鳥でした。『万葉集』に登場する鳥の中で、ホトトギスが最も数多く詠まれています。現在では山地や藪などでないと、その鳴き声をなかなか耳にする機会もありませんが、昔は至る所で聞くことができる身近な鳥でした。夏になると聞こえ始めるホトトギスの鳴き声は、夏らしさを表す素材だったのです。
実のところ、ホトトギスは早朝から夜にかけて鳴くそうですが、夜に鳴き声が聞こえる印象があります。夜の静寂の中に「キョキョキョ」とホトトギスの囀りが聞こえると、はっとさせられます。ふとした瞬間、不意に鳴くように感じられるためか、和歌の中にはホトトギスの鳴き声を待つ気持ちと重ね合わせて詠むものが多いのです。
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただ有明の 月ぞ残れる[小倉百人一首 第八十一番 後徳大寺左大臣]
- 【歌意】
- ほととぎすが鳴いた方をながめやると、その姿は見えず、ただ有明の月だけが残っているよ。
後徳大寺左大臣の歌も、ようやくホトトギスが鳴いた瞬間を詠んだものです。「ホトトギスの鳴き声が聞こえた。やっと鳴いた!」と思って声がした方の空を見やると、ホトトギスはすでに飛び去ってしまい、有明の月が掛かっているのだけが見えたのです。「有明の月」は明け方近くのまだ暗い時間帯に、沈みかけている月のことを指します。夏の夜、深夜から明け方まで一晩中、主人公はホトトギスの鳴き声を待ち続けていたのでしょう。ホトトギスの鳴き声につられ、はっとしてそちらを見る主人公の姿と、視線の先の有明の月だけが詠まれています。その仕草と「有明の月」が輝いている時間帯という設定に、主人公が鳴き声を待ちわびていた心情が込められているのです。夏の夜に、一瞬聞こえたホトトギスの鳴き声と空に掛かる有明の月が、寂しさと余韻を感じさせます。
別れを惜しむかのように月を惜しむ
湿度も温度も高い京都の夏の昼間は、昔の人にとってもつらいものであったでしょう。一方、夏の夜は昼間の暑さがやわらぎ、爽やかで過ごしやすい、良い時間帯です。夏を詠んだ和歌も、夕暮れから明け方まで、夜を詠んだものが多いのです。
夏の夜は短くて、まだ宵だと思っているうちに夜明けになった。「まだ宵ながら明けぬるを」の表現は、まだ宵だと思っているうちに夜が明けてしまった、と大げさな言い方です。「ついさっきまで夕方だったのに」といったところでしょうか。
月は山に沈むものだけれど、沈む前に夜が明けてしまったから、山の代わりとして雲のどこかに月は宿っているのだろうか。夜が明ける速さと、月の沈みゆく速さが競い合うのをおもしろがりながら、山に沈む前にもう少し月を見ていたいのに、という気持ちが詠まれています。
夏の夜は まだ宵ながら
明けぬるを
雲のいづこに
月やどるらむ[小倉百人一首 第三十六番 清原深養父]
- 【歌意】
- 短い夏の夜は、まだ宵のうちと思っている間に明けてしまったが、月は雲のどのあたりに宿っているのだろう。
清少納言の『枕草子』には、「夏は夜。月のころはさらなり」とあります。夏は夜が一番良い、月のあるころは言うまでもない、と言うのです。月は秋が一番美しいというのが伝統的な美意識ですが、夏の月の美しさを褒めたたえています。実は三十六番の作者、清原深養父は清少納言の曾祖父にあたります。清少納言は、曾祖父の深養父が詠んだこの歌を思い浮かべながら、「夏は夜。月のころはさらなり」と書いたのかもしれません。