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をぐら歳時記

『小倉百人一首』翻訳の挑戦

英訳を通して日本文化に出会う◆その三


英訳を通して日本文化に出会う

和歌の修辞などを踏まえ、読み札と取り札のイラストに「絵合わせ」の要素を取り入れた英語の五行詩、百人一首かるた『WHACK A WAKA(ワカワカ)百人イングリッシュ』を作成されたピーター・マクミラン氏。今回は、その翻訳を通して、苦心された点や日本人の価値観・文化等について、感じられたことを語っていただきました。


めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
     雲がくれにし 夜半のかな

[小倉百人一首 第五十七番 紫式部]
 

Just like the moon,
you had come and gone
before I knew it.
Were you, too, hiding
among the midnight clouds?
 

【大意】
久しぶりにめぐり会って、その人かどうか見分けがつかないうちに、雲に隠れてしまった夜半の月のように、あの人は慌ただしく姿を消してしまったことよ。
【英単語】
○hiding=隠れる  ○midnight=真夜中  ○cloud=雲

月に親しむ日本と否定的に捉える西洋

 この歌は、表面上は月のことを詠っただけのように見えます。しかし、出典に添えられている詞書(※1)を読むと、「月」は紫式部の幼馴染の女性のことだとわかります。せっかく久しぶりに会えたのに、ほんのわずかな時間で別れざるをえなかった寂しさを、すぐに雲に隠れてしまう月に託した歌なのです。

 幼馴染への直接的な言及はありませんから、この歌の英訳は文字通りの直訳では決してうまくいきません。この歌の魅力を英語で伝えるためには、「月」が友人のことで、この歌は紫式部がその友人に宛てた歌であると伝わるように訳す必要があります。

 月は日本文化においては非常に愛された大切な天体で、月見は日本の美学の発展において大きな役割を果たしました。「めぐる」は「月」の縁語(※2)であり、この歌でも効果的に使われています。

 一方、英語をはじめ、西洋の古典文学や詩の世界では、月は移り気な愛情や浮気、さらには狂気とも結びつけられることが多い天体です。例えばシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』には、次のようなジュリエットの台詞が登場します。

「ああ、月に賭けて誓うのは止めて。移り気な月はひと月ごとに満ち欠けを繰り返す。あなたの恋もあんなふうに変わり易いといけないから。」
※“シェイクスピア全集2「ロミオとジュリエット」ちくま文庫 松岡和子 訳”より

 とはいうものの、現代に生きる私たちは、日本の伝統的な感性にも、西洋文学における慣例にも縛られる必要はないのかもしれません。英訳を読み味わうことが、この愛すべき和歌をより豊かに楽しむことに繋がれば嬉しいです。


奥山に もみぢふみわけ なく鹿の
   声聞くときぞ 秋はかなしき

[小倉百人一首 第五番 猿丸大夫]
 

In the deep mountains
making a path
through the fallen leaves,
the plaintive belling of the stag―
how forlorn the autumn feels.
 

【大意】
人里離れた奥深い山で、散り敷いた紅葉をふみわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、ひとしおに秋は悲しいものと感じられる。
【英単語】
○plaintive=もの悲しい  ○belling=(雄鹿が)鳴く
○stag=雄鹿  ○forlorn=孤独

私の世界を変えた歌

 日本語はしばしば「私」などの主語を略しますが、この歌の「もみぢふみわけ」の動作の主語も曖昧で、鹿とも、歌の主人公とも解釈できます。しかし英語の文法では、すべての文に必ず主語が必要ですから、英訳する際にはどちらかの解釈に選択を迫られます。

 私も最初に英訳したときは歌の主人公を主語としました。「紅葉を踏み分けながら歩く私」という解釈です。しかし、何年も考えたのち、主語をどちらにも読み取ることができる再訳を作りました。文法的には不完全な英語ですが、詩の創作では文法上のルールを少々破ることも許されます。

 日本語と英語の詩歌の違いについてもう少し考えてみましょう。ワーズワース(※3)の有名な「I wandered lonely as a cloud」のように、西洋の詩の主語は常に思考する主体=人間であり、自然と対峙し観察する視点を提示します。しかし、和歌は、しばしば人と自然を渾然一体のものとして表します。それは、人間を自然の一部として捉える日本の自然観の現れだと私は感じます。

 この歌の訳には曖昧さが残ります。しかし、その曖昧さがかえって、日本文化の重要な特質である自然と人間との近しさを伝えられるのではないかと考えています。

 この歌には主語がないという事実への気付きは、私の人生の大事件となりました。この事件は私の人生を大きく変え、私の世界の見え方を変えました。幼い頃から慣れ親しみ、当たり前の、絶対的なものだと思ってきたものの見方がひとつの「型」にすぎないとわかり、私は愕然としました。その時以来、私の中には日本的な世界と、西洋的な世界という二つの異なる世界が同居するようになりました。日本及び日本文化との出会いへの感謝が私の中で尽きることがないのは、それが今では私の人生そのものになっているからなのです。

 今回ご紹介した二首は西洋と日本の文化の違いを端的に示す好例であるとともに、詩の翻訳という観点からみて好対照をなしています。「めぐりあひて」の歌では、英語でもこの歌の魅力を伝えるために原文にはない言葉を補い、英語らしい表現の訳としました。一方「奥山に」の歌では日本語の感覚に合わせて英文法のルールを逸脱することで、日本文化ならではの感性を伝えることを目指しました。

《用語解説》
※1詞書(ことばがき)
和歌の前書きとして、その作品の主題・成立事情などを記したもの。
※2縁語(えんご)
互いに関係が深い言葉を和歌の中に配置し、連想を働かせて表現効果を増すこと、またその言葉。
※3ワーズワース(ウィリアム・ワーズワース:1770年~1850年)
感受性や主観に重きをおいたイギリスの代表的なロマン派詩人で、情熱を秘めた自然賛美の詩を書いている。