をぐら歳時記
清麗な地が教えた新たな発見
こころの充電を図る 貴族の別荘地◆その一
平安時代、貴族たちは都から離れた風光明媚な地に別荘を建て、リフレッシュしていました。ここでは、貴族の別荘地にスポットを当て、そこでの過ごし方などを通して、どのように心の充電を図っていたのかを紹介していきます。
古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、平安貴族の四大別荘地の中から、春号では後鳥羽院の愛した「水無瀬」について、語っていただきます。
多才ながら愁いを有していた後鳥羽院
『小倉百人一首』の九十九番は、後鳥羽院の和歌です。後鳥羽院は、『小倉百人一首』を選んだ藤原定家と縁の深い上皇でした。定家は、第八代目の勅撰和歌集である『新古今和歌集』の撰者の一人でしたが、『新古今和歌集』の撰集を命じたのは後鳥羽院です。
人もをし
人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに
物思ふ身は[小倉百人一首 第九十九番 後鳥羽院]
- 【歌意】
- 人を愛おしいと思い、また、人を恨めしくも思うことだ。何の甲斐も無い世の中のことを考えるがゆえに、物を思うこの身には。
上の歌は、後鳥羽院が建暦二年(一二一二年)十二月に、様々な心の物思いや鬱屈を吐露する「述懐」の題で詠まれたものでした。後鳥羽院の物思いとは、治世者としての悩みや苦しみです。人を愛おしいと思う一方で、恨めしくも思う、相反する矛盾した感情を、当時三十三歳の後鳥羽院は、自らが上皇として天皇の背後から実権を握り、政治を行う身だからだという自覚のもとに詠んだのでした。
後鳥羽院は大変にエネルギッシュな人でした。文武両道で多彩な才能を持っていました。十九歳の若さで息子・土御門天皇に譲位した後、蹴鞠や寺社参詣など様々なことに熱中しました。和歌に熱中し始めたのも、やはり譲位後です。
水無瀬はリフレッシュできる私的空間
譲位後の後鳥羽院が愛したのが、水無瀬離宮でした。現在の大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮は、水無瀬離宮の跡地に創始されたものです。もともとは内大臣・源通親の別荘だったところを、後鳥羽院が気に入り、自身の離宮としました。水無瀬の地は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流し淀川となる地点であり、北部には天王山などの山が続く丹後山地が控えています。平安時代から、貴族たちが狩猟を楽しむ地として親しまれてきた場所で、山水に恵まれた景勝地でもありました。
後鳥羽院は、この水無瀬離宮をこよなく愛しました。たびたび訪れては、狩猟・舟遊び・水泳・乗馬を楽しんだようです。白拍子(舞女)を呼び、今様(流行歌謡)や舞を楽しんでもいました。もちろん、歌会や歌合も開いています。京にある上皇御所が公的な住居であった一方で、水無瀬離宮はあくまで後鳥羽院がリフレッシュできる私的空間だったのです。
水無瀬では、上皇に伴って来る殿上人(宮殿にあがることを許された人)も、身分の上下を問わずに皆が水干を着ることになっていました。水干は身動きしやすい平常着です。現代の感覚で言えば、ネクタイを締めたスーツではなく、スポーティーなポロシャツとスラックス姿といったところでしょうか。格式張らない気楽な御幸(上皇の外出)を楽しもうとするのが、後鳥羽院の意志でした。
常識的美意識を覆す新しい美の発見
さて、水無瀬離宮で後鳥羽院が詠んだ歌を取り上げましょう。
詞書※1
をのこども、詩をつくりて歌にあわせ侍りしに、水郷春望といふことを
見わたせば
山もと霞む 水無瀬河
夕べは秋と
なに思ひけむ[新古今和歌集 春上 三六]
- 【歌意】
- 見渡してみると、山の麓は霞み、水無瀬川が流れている。夕方の眺めは秋が一番素晴らしいなどと、どうして今まで思っていたのだろうか。
元久二年(一二〇五年)六月の『元久詩歌合』という催しで詠んだ一首です。漢詩と和歌を組み合わせて勝負を付ける詩歌合で出された、「水郷春望」つまり水辺の景勝地を舞台として春の風景を詠む題で、後鳥羽院が詠んだのは、水無瀬の景色でした。
水無瀬の地は、水温の異なる三つの川が合流することから、霧が生じやすく、朝夕は辺り一帯が霞んで見えます。秋の夕方が美しいというのは、『枕草子』初段に「秋は夕暮れ」と書かれるように、常識的美意識として根付いたものでした。そうした常識に対して、後鳥羽院は「夕暮れ時は秋が一番美しいなど、どうして思っていたのだろうか。いや、春の夕暮れ時もまたそれに劣らない美しさだ。それに気づかせてくれたのは、この水無瀬の景色なのだ」と詠んでいるのです。自身の愛した水無瀬の景色によって、新しい美を発見したというこの歌は、後鳥羽院の代表歌の一つとして名高いものです。
- 《用語解説》
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※1詞書(ことばがき)
和歌集に記載されている、和歌が詠まれた状況・日時・歌題などを示す説明文。