をぐら歳時記
「たしなみ」の遊戯◆其の三
優雅さと思いやりが試される蹴鞠
平安貴族にとって遊戯は、単なる楽しみというだけでなく、競い合いであり、人間関係であり、たしなみや教養の一つでもありました。ここでは、貴族の遊戯にスポットを当て、その本質や内容とともに様々な逸話について紹介していきます。
古典和歌を専門に研究されている小山順子先生に、平安貴族の遊戯の中から、秋号では作法とともにチームワークが求められた「蹴鞠」について、語っていただきます。
蹴鞠は、協力し技の妙を楽しむ遊戯
蹴鞠は、文字どおり鞠を足で蹴る競技です。そう言うと、サッカーのようなものかと思われるかもしれませんが、ゴールにボールを入れて点数を競うサッカーと違い、地面に鞠が落ちないように蹴り上げ続ける遊戯です。つまり、複数メンバーでリフティングを繰り返し、その回数を競うのです。メンバーが一丸となって、できるだけ多くの回数、鞠を蹴り上げられるように協力し合い、技の妙を楽しむものです。
『源氏物語』若菜上巻にも蹴鞠の場面がありますが、本格的に貴族の間で人気となるのは平安時代も終盤、院政期のことです。院政期には藤原成通という伝説的な名足(達人のこと)が登場します。成通は、『小倉百人一首』八十六番の作者・西行と親しくしていました。成通は西行より二十一歳年長ですが、西行も蹴鞠の名足だったので、蹴鞠を通じて親交があったのでしょう。西行の家集『山家集』には、成通との贈答歌が残されています。
詞書※
侍従大納言成通のもとへ、後の世の事おどろかし申したりける返事に
おどろかす
君によりてぞ 長き世の
久しき夢は
覚むべかりける(山家集・雑・七三〇 成通)
詞書
返事
おどろかぬ
心なりせば 世の中を
夢ぞと語る
甲斐なからまし(山家集・雑・七三一 西行)
「後の世の事おどろかし」とは、後世のための仏道修行をするよう忠告したということですから、西行が成通に出家を勧めたことが分かります。成通の歌は、「あなたが後世に気を向けてくださったおかげで、長い悪夢のような俗世の煩悩から覚めることができそうです」といった意味です。西行の返歌の意味は、「あなたが後世のことに気づかれる心をお持ちでなかったなら、この世を夢だと語る甲斐もなかったことでしょう」という内容です。なお成通は、十月十五日、西行の出家と同じ日付に出家しました。
受け継がれてきた心技体と優雅さ
『小倉百人一首』九十九番の作者・後鳥羽院の蹴鞠の師は、九十四番作者・藤原雅経でした。後鳥羽院は文武両道のエネルギッシュな上皇でしたから、蹴鞠にも熱中し、鎌倉にいた雅経を京都に呼び戻したのです。その後、兄の宗長は「難波家」、雅経は「飛鳥井家」という蹴鞠の流派を興しました。それでは、雅経が詠んだ歌を取り上げてみましょう。
詞書
蹴鞠
立ち慣るる
我が身老い木の もとごとに
さても朽ちせぬ
名やとまりなん(明日香井集・七二二)
承元二年(一二一四年)、雅経が四十五歳の時に詠んだ歌です。意味は、「立ち慣れてきた我が身が老いたように老いた木の一本一本の下に、このまま朽ちてしまわず、私の名は残ることだろう」です。ここで詠まれる「木」」は、蹴鞠をする場所であることを示すため、四方に植えた「懸かりの木」のことです。長年、懸かりの木の下で蹴鞠に勤しんだ自分が老いたように、懸かりの木も老い木となったことに感慨を覚え、その懸かりの木の一本ずつに、蹴鞠の名足であり、飛鳥井流の祖である自身の名は残るだろうという自負が表れています。
ちなみに、飛鳥井家の屋敷のあった場所(京都市上京区東飛鳥井町)に、現在、白峯神宮があります。白峯神宮の境内には鞠の守護神・精大明神が祀られており、球技をはじめスポーツに関係する多くの人々が参拝します。雅経が詠んだように、現在にも飛鳥井家そして雅経の名は残っているのです。
なお、藤原定家の息子・為家も、後鳥羽院の息子である順徳天皇とともに蹴鞠に打ち込みました。蹴鞠はチームワークとともに、技の美しさや振る舞い、心持ちが重要視され、貴族としての優雅さが際立つものです。成通、西行、雅経、為家など、蹴鞠の名足が歌人としても名を馳せたのは、蹴鞠の修練が和歌にも通じるものだったからなのかもしれません。
- 《用語解説》
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※詞書(ことばがき)
和歌集に記載されている、和歌が詠まれた状況・日時・歌題などを示す説明文。