をぐら歳時記
小倉百人一首をひもとく
平安を生きた女流歌人 其の一 紫式部
藤原定家が編纂した『小倉百人一首』には、女性が詠んだ和歌が二十一首選ばれています。平安時代を中心とした時代の日本文学界は女性の活躍が目覚ましくなった時代といわれています。
今回は、その二十一首の女流歌人の中でも「紫式部」に焦点を当て、 和歌の訳だけではなく、なぜ百人一首に彼女の和歌が選ばれたかなどを、百人一首研究の第一人者である、同志社女子大学の吉海先生に解説いただきました。
◆作者伝◆
紫式部。生没年未詳。およそ天禄元年(九七〇年)頃~寛仁三年(一〇一九年)頃、五十歳位で死去か。藤原為時の娘。藤原宣孝の妻となり、賢子 (大弍三位)を生む。後に中宮彰子に出仕し、藤式部と称された。
『源氏物語』・『紫式部日記』・『紫式部集』の作者。
めぐりあひて
見しやそれとも わかぬまに
雲がくれにし
夜半の月かな(小倉百人一首・第五十七番・紫式部)
◆現代語訳◆
久しぶりにお会いして、今見たのはあなたかどうかも見分けがつかない短い間に、 あたかも夜半の月が雲隠れしたように、あなたは帰ってしまわれたのですね。◆語釈◆
「めぐり逢ひて」は一種の掛詞で、表は月のことだが、裏では女友達を指す。
「雲隠れ」は『源氏物語』の巻名でもある。「夜半」はまだ帰るには早い時間。
「月かな」は「月影」となっている古写本もある。
(同志社女子大学名誉教授 吉海直人 訳)
「めぐりあひて」には
月と人が掛けられている
これは紫式部の歌です。ちょうど昨年の大河ドラマは、紫式部(まひろ)を主人公とした『光る君へ』でしたね。
見ていてお気づきになった方も多いと思いますが、第一回は「約束の月」で、第二回は 「めぐりあい」でした。
このタイトルは、紫式部の歌から付けられたものです。『光る君へ』では、空にかかる月がキーワードとして機能させられていました。その延長線上に、道長の「この世をば」という望月の歌もありました。
『新古今集』の調書によれば、この歌は 久しぶりに再会した友達が、早く沈む上弦の月と競うように早く帰ったことを惜しんだものです。
「わらはともだち」というのは珍しい言葉ですが、意味は幼馴染みでよさそうです。本来は女友達なのでしょうが、大河ドラマではそれをまひろ(紫式部)と三郎(道長)のこととしていました。
ですから月は、二人の出会いと別れ、あるいは運命を象徴していたのです。おわかりになりましたか。
選ばれているのは
『源氏物語』の作者だとわかる歌
これは脚本家・大石静さんの創作なのでしょうが、見事な構成でしたね。
とはいえ、この歌は、もっと別なところに重要な意味が潜んでいました。それは四句目に「雲隠れ」とあることです。この「雲隠れ」は、人間の死の象徴でもあります。
それを踏まえると、『源氏物語』の雲隠巻が想起されます。その場合は光源氏の死の象徴です。
物語に直接死を描かず、「雲隠れ」という巻名だけでそのことを表しているのです。
ということで「雲隠れ」という言葉から、読者は『源氏物語』を想起し、そして 紫式部が作者だということに思いを馳せることになるのです。
言い換えれば「雲隠れ」は、『源氏物語』を想起させるための装置だったのです。そのことは、百人一首の次の歌(五八番)の作者が大弐三位であることからも察せられます。大弐三位は紫式部の娘(賢子)ですが、『源氏物語』宇治十帖の作者と目されている人でもあるからです。
百人一首に親子で採られている歌人は十八組ありますが、あえて親子をくっつけているのは、巻頭の天智・持統と巻末の後鳥羽・順徳、そしてこの紫式部母娘の三組だけです。
他の組は親子でも並んでいません。となるとこの二人は、あえて並べることで意味を持たせていることになります。
それが母娘で『源氏物語』の作者だということです。
百人一首の歌は
歌人の人生史の象徴
そもそも紫式部は、必ずしも歌人として一流ではありませんでした。というのも、『後拾遺集』にわずか三首しか入っていないからです(和泉式部は六十七首)。
ところが藤原俊成が『六百番歌合』 の判詞で、「源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり」と述べて以降、『源氏物語』は歌人のバイブル(必読書)となりました。
それに伴って歌人としての紫式部の評価が高まり、『千載集』に九首、『新古今集』に十四首も採られています。
そんな紫式部ですから、代表歌はどうしても『源氏物語』を髣髴(ほうふつ)とさせる歌でなければなりません。
百人一首は単なる秀歌撰ではなく、 作者の人生を象徴するような歌が選ばれている、というのが私の基本的な考えです。
◆出典◆
『新古今集』雑上「はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ」一四九九番