をぐら歳時記
小倉百人一首をひもとく
平安を生きた女流歌人 其の二 清少納言
藤原定家が編纂した『小倉百人一首』には、女性が詠んだ和歌が二十一首選ばれています。平安時代を中心とした時代の日本文学界は女性の活躍が目覚ましくなった時代といわれています。
今回は、その二十一首の女流歌人の中でも「清少納言」に焦点を当て、和歌の訳だけではなく、なぜ百人一首に彼女の和歌が選ばれたかなどを、百人一首研究の第一人者である、同志社女子大学の吉海先生に解説いただきました。
◆作者伝◆
本名未詳。清少納言は女房名。生没年未詳。康保年間(九六四年〜九六八年)(万寿年間(一〇二四年(一〇二八年)頃か。重代歌人である清原元輔の娘。橘則光に嫁して則長を生む。後に中宮定子に出仕し、後宮でのできごとを『枕草子』に著している。
紫式部が『紫式部日記』で清少納言の悪口を書いたことから、二人はライバルとされているが、出仕時期は重ならないので、直接対峙したことはないと考えられている。
夜をこめて
島のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ(小倉百人一首・第六十二番・清少納言)
◆現代語訳◆
真夜中に、にわとりの鳴き真似によって、たとえ函谷関の関は通れたとしても、逢坂の関は決して騙されて通したりはしませんよ。◆語釈◆
「夜をこめて」は、まだ晩(午前三時)にもならない真夜中にの意。
「島のそらね」はにわとりの鳴き真似のこと。「はかる」はだますこと。
中国の故事「鶏鳴狗盜」を踏まえた応答になっている。
「よに」は下に否定を伴って、決して〜ないと訳す。
「逢坂の関」は「逢ふ」が掛けられており、恋歌に用いられることが多い。
(同志社女子大学名誉教授 吉海直人 訳)
『枕草子』は必ずしも
明るい作品ではない
紫式部に続いて清少納言を取り上げます。「大河ドラマ」では早々と二人を出合せ、その過程でまひろ(紫式部)がききょう(清少納言)に『枕草子』の執筆をすすめていましたね。
この展開は大石静さんの独創的な脚本です。ドラマでもそうでしたが、『枕草子』は中関白家が没落し、定子がもっとも危機的かつ悲哀に満ちた状況にある時に書かれました。
よく『枕草子』は明るいといわれますが、 実は暗い状況の中であえて明るく描かれていたのです。というより、暗い現実を意識的に描いていないのです。
根っからの明るさが作品に表出しているのではなく、作られた「をかしの文学」だったのです。
「夜をこめて」歌は
『枕草子』を象徴する歌だった
ところで百人一首には、王朝女流文学者が一割以上撰入されており、そのために女性の占有率が二十%以上になっています。
ただし紫式部や清少納言は、必ずしも一流歌人ではありません。それにもかかわらず百人一首に選ばれているのは、やはり『源氏物語』や『枕草子』の作者だからでしょう。そう考えると、百人一首は単純な秀歌選ではなく、平安朝文学史としても読めそうです。
ということで清少納言の歌は、『枕草子』の中から、『枕草子』を象徴する歌が選ばれました。「春はあけぼの」もいいの ですが、初段には歌が掲載されていません。
また「香炉峰の雪」も絵画化されて有名ですが、ここにも清少納言の歌が含まれていません。ということで、「夜をこめて」歌を含んでいる『枕草子』一三〇段「頭弁の、職にまゐりたまひて」に白羽の矢が立ったのでしょう。
恋愛ゲームにふさわしい
解釈はいかがですか
この段には、能書家で宮中の人気者である藤原行成と清少納言のやりとりが描かれています。「頭弁」は行成の官職です(『後拾遺集」』では「大納言」とあります)。
これを読むと、いかにも二人は恋人同士のように思えますが、年齢差を考慮するとあくまで公的な恋愛ゲームだったようです。清少納言は漢文の素養を十二分に発揮して、宮中の男性官人達との教養の競い合いを繰り広げます。
「夜をこめて」歌は、そんな清少納言の代表例とも言えるものでした。そのために 『後拾遺集』の部立も、恋ではなく雑になっています。
当代きっての才人とされる藤原行成ですから、相手にとって不足はありません。それもあってこの話は、かなり芝居がかっていると見ることもできます。
そうなると末尾の「ゆるさじ」は、従来は行成の求愛を拒絶する意味(純情路線)に解されていましたが、その反対に夜の明けないうちは(男が帰る時刻になる前に)決してあなたを帰したりはしませんと解釈することも面白いですね(中年の疑似恋愛です)。いかがでしょうか。
なお行成は、この一件を自らの日記 『権記』には一切書き留めていません。
◆出典◆
『後拾遺集』雑二「大納言行成物語などし侍りけるに、内の御物忌にこもればとていそぎ帰りて、つとめて鶏の声にもよほされてといひおこせて侍りければ、夜深かかりける鶏の声は函谷関のことにやといひつかはしたりけるを、立ちかへりこれは逢坂の関に侍りとあればよみ侍りける」・九三九番