をぐら歳時記
小倉百人一首をひもとく
平安を生きた女流歌人 其の四 右大将道綱母
藤原定家が編纂した『小倉百人一首』には、女性が詠んだ和歌が二十一首選ばれています。平安時代を中心とした時代の日本文学界は女性の活躍が目覚ましくなった時代といわれています。
今回は、その二十一首の女流歌人の中でも「右大将道綱母」に焦点を当て、和歌の訳だけではなく、なぜ百人一首に彼女の和歌が選ばれたかなどを、百人一首研究の第一人者である、同志社女子大学の吉海先生に解説いただきました。
◆作者伝◆
右大将道綱母 承平七年(九三七年)頃~長徳元年(九九五年)頃。藤原倫寧(ともやす)の娘。藤原兼家の妾妻となり、その夫婦生活を『蜻蛉日記』に書いている。
絶世の美女だったことが『和歌色葉集』に「本朝古今美人三人之内也」とあり、また『尊卑分脈』にも「本朝第一美人三人之内也」と書かれている(他の二人は光明皇后と衣通姫(そとおりひめ))。なお「―母」という呼称は道綱母と儀同三司母の二人のみ(前回参照)。
なげきつつ
ひとりぬる夜の あくるまは
いかに久しき ものとかはしる(小倉百人一首・第五十三番・右大将道綱母)
◆現代語訳◆
あなたのいらっしゃらない夜を、嘆き続けて独り寂しく明かす夜の時間がどんなに長いものか、門を早く開けてとおっしゃるあなたにはおわかりにならないでしょうね。◆語釈◆
「あくる」に「明ける(翌日になる)」と「門を開ける」が掛けられている。『蜻蛉日記』には「あかつきがた」とあるので、「明くる」は「夜が明ける(明るくなる)」ではなく、翌日(午前三時)になる意としたい(まだ外は暗い)。なお「おそくあけければ」は、門を開けるのが遅いのではなく、むしろ門を開けてくれないという意味である。
(同志社女子大学名誉教授 吉海直人 訳)
勅撰集の詞書の説明
道綱母の歌が載っている『拾遺集』と『蜻蛉日記』とでは、歌の成立状況が大きく異なっています。まず、公的な『拾遺集』ですが、九一二番の詞書には「入道摂政まかりたりけるに、門をおそく開けければ、たちわづらひぬといひ入れて侍りければ」とあります。
これによれば、兼家が訪れた時、道綱母がなかなか門を開けなかったところ、立ちわずらって困っていると言って寄こした兼家に対して即座に詠んだ歌ということになります。
「明くる」は「明ける」と「門を開ける」の掛詞であり、道綱母の独り寝の時間の長さと、兼家の待ち時間の短さとが見事に対照されています。そこから、この後で門が明けられ、道綱母は兼家を受け入れたというハッピーエンド(歌徳説話)まで想像されます。
蜻蛉日記の説明
一方、日記の天暦九年十月条には、「暁方に門をたたく時あり。さなめりと思ふに憂くて開けさせねば、例の家と思しき所に物したり。つとめてなほもあらじと思ひて」とあります。暁方(午前三時過ぎ)に訪れた兼家に対して門を開けなかったところ、さっさと愛人(町の小路の女)の家に行ってしまったというのです。兼家は待っていたわけではないのです。
そこで翌朝、愛情の衰えを暗示する「うつろひたる菊」を添えて歌を贈りました。それに対して兼家は、「げにやげに冬の夜ならぬ槙の戸も遅く開くるはわびしかりけり」と返歌をしています。それにしても勅撰集の詞書とはずいぶん状況が違っていますね。
しかもこの時は、ちょうど道綱母が道綱を出産した直後のできごとで、道綱母は精神的にも大変不安定な時期でした。そんな時にあろうことか兼家は、新しい愛人を作って通っていたのです。
ここで注目していただきたいのは「暁方」です。この時間は男が通ってくる時間帯ではなく、むしろ泊っていた女の元から帰る時間でした。兼家は普通に通ってきたのではなく、愛人のところからの帰りにやってきたのです。だから道綱母は怒って門を開けなかったのでしょう。
日記には、道綱母の悲哀や怒りが満ちあふれていました。ところが『拾遺集』では、道綱母の物思いは完全に捨象されており、ただ当意即妙に理知的な歌を詠んだことだけが強調・評価されています。
要するに、歌の名手としての道綱母が描かれているのです。さてみなさんはどちらの解釈を支持しますか。
「明くる」の二重構造
有名な「嘆きつつ」歌のポイントとしては、三句目の「明くる」を掛詞とするか否かがあげられます。というのも『蜻蛉日記』に、「げにやげに冬の夜ならぬ槙の戸も遅く開くるはわびしかりけり」という兼家の返歌があるからです。この「遅く開くる」に対応させると、掛詞と認定した方がよさそうに思えます。
ところが日記をよく見ると、道綱母は門を開けておらず、兼家は長く待つこともせずさっさと愛人の所に行っていることがわかります。要するに兼家の返歌によって、道綱母の怒りがはぐらかされているのです。
どうやら勅撰集の詞書は情報を操作することで、道綱母の女としての苦悩を切り捨て、機知的な和歌の才能のみを評価しているようです。だからこそ、この後で門を開けて兼家を受け入れたという恋愛ストーリーを想像させているのでしょう。
正妻ならぬ身で、夫の愛を独り占めにしようとした道綱母の女としての訴え・悲哀は、夫兼家にも、そして勅撰集の撰者(男達)にも共感してもらえませんでした。
◆出典◆
『拾遺集』恋四「入道摂政まかりたりけるにかどをおそくあけければたちわづらひぬといひいれて侍りければ」・九一二番(『拾遺抄』恋上「入道摂政のまかりたりけるにかどをおそくあけ侍りければたちわづらひぬといひいれて侍りけるに」・二六八番)
