洗心言
2002年 創刊号
伝承の花
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- 伝承の花【菜の花】
- 日本の春を代表する花で、野原一面を黄色にうめつくすその美しさは黄金菜の名にもたとえられるほどです。花言葉は青春。巡り来る春の化身として、不老の願いを託します。
「洗心言」発刊に際して
人や企業というものが、世の一切の力を借りて生かされている存在であるとすれば、事業の真の目標は「人々の幸福の創造」という永遠普遍の命題の達成であり、企業の存在理由もそこにあります。
なぜなら人間は、人とのかかわりの中で生きていかねばなりません。
人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとする愛の事業経営こそ、私どもが目指すべき基本姿勢であり、人々の幸せを願う善き商品と善きサービスの証しとしてお客様から賜るご褒美こそが私どもの生きる糧と心得ます。
この想いを礎とし、一期一会のご縁ある方々に、些少なりとも安らぎをご提供できればと発刊いたしましたのが、皆さまと私どもを結ぶ小冊子「洗心言」でございます。
先人たちが残した有形無形の遺産に材を求めながら、決して変わることのない、日本人ならではのこころの拠り処を訪ねてまいりたいと考えています。
ほんのひとときではございましょうが、潤いに満ちたこころの旅をお楽しみいただけましたらこれに勝る喜びはございません。
皆さまのお幸せを願いつつ、発刊のご挨拶といたします。
報恩感謝 主人 山本雄吉
自然の恩恵 共存の知恵
何気なく辺りを見渡せば、そこには先人たちが過酷な自然とともに生きるなかで培ってきたより豊かに、より快適に生きていくための知恵や、今も生き続ける数々の遺産を見いだすことが出来ます。人と自然がひとつになることで生まれ出る本当の豊かさ。小倉山荘がお届けしたい気持ちもここにあります。
第一回は、「三十三間堂」の名で知られる京の名刹、創建以来八百数十年の歴史を誇る蓮華王院を訪ねてみました。
一千一体の観音像を守る。
三十三間堂は
大きなゆりかご。
「地震にも一糸乱れぬ、
荘厳かつ柔和な群像美」
京都・東山の麓近くに佇む名刹、蓮華王院。幅二百メートルにもおよぶ本堂に三十三の柱間を数えることから「三十三間堂」の名で広く知られています。ひとたび内陣を望むと、本像の千手観音坐像を中心として左右に十段五十列、五百体ずつの千手観音立像の偉容に誰もが圧倒される思いを抱くことでしょう。
仰ぎ見れば、二つと同じものをもたぬ慈顔がずらり千と一つ。鎌倉のいにしえより、人々に救いの手を差し伸べてきた群像美は戦乱にさらされることはあったものの、天変地異によって列を乱したことは一度もなかったと伝えられます。地震国と称される日本において、じつに驚くべき話といえるでしょう。
「揺れとともに揺れ、
力を絶妙に散らす造り」
何故でしょうか? その理由は本堂の基礎づくりにあります。しかし「三十三間堂」に、今日の建築において「基礎」と呼べるものはつくられていません。本堂と同じ大きさの溝を掘り、粘土と砂とを交互に敷きならし、その上に置いた敷石一つごとに柱を一本一本立てているだけで、それぞれの柱はほどよい遊びをもって横木でつながれているにすぎないのです。
ところが、そうすることによって揺れの力を絶妙に分散する構造となり、万一地震が起きたとしても本堂はゆりかごのように波打つだけで、鎮まれば再びもとの佇まいに戻るのです。観音像たちも本堂とともに揺れた後、何事もなかったかのように安らかな微笑をたたえます。
「剛」ではなく「柔」。
宿命に培われた智恵と術
西洋で生まれ育まれた近代建築が「剛」、すなわち力をもって地震に立ち向かうものとすれば、「三十三間堂」に代表されるわが国の寺院建築は「柔」、しなやかなつくりで揺れを受け入れ、結果、地震を克服するものといえるでしょう。そしていま、近代建築の世界において、このような寺院建築の原理が見直されていると聞きます。
決して自然にあらがうことなく、むろん宿命に甘んじることもなく、つねに智恵をしぼり、試行錯誤を繰りかえし、自然とともに生きる術を勝ち得てきた先人たち。その精神はいまを生きる私たちに勇気を与え、これから進むべき道を示してくれているといえないでしょうか。
平安の遊・藝
「蹴鞠」
「そのはじまりは古代中国」
丑寅に桜、辰巳に柳、未申に楓、戌亥に松。それぞれ趣の異なる樹木を植えた方形のなかで、八人の鞠足が「アリ」「オウ」の掛け声とともに、鹿革製の鞠を右足だけで高く宙に漂わせる遊び、それが蹴鞠です。そのはじまりは古代中国といわれ、わが国には約千四百年前に伝来。後に大化の改新を成し遂げる両雄、中大兄皇子と中臣鎌足は、奈良・飛鳥法興寺の蹴鞠会でめぐり会ったと『日本書紀』に記されています。
「王朝絵巻に描かれた遊」
平安時代半ばを迎えるころ、蹴鞠は宮廷の貴族たちの間で人気を博しはじめます。勝ち負けを争うことなく、相手に蹴りやすい鞠を与え、長く蹴り続けることをよしとする決まりが彼らの趣に合ったようで、衣裳も水干、葛袴に烏帽子姿というものでした。その雅びやかな情景は平安文学にもたびたび登場し、『源氏物語』若菜上巻には、三月、桜もみずみずしい六条院の庭で、蹴鞠に弾む若公たちの姿を愛でる館の女房たちの様子が描き出されています。
隆盛を極めた平安時代後期には流派も興り、飛鳥井家、難波家の両家が宗家として公認されるなど技芸としてたしなまれるようになりました。ちなみに京都・西陣の「白峯神社」は飛鳥井家の邸宅跡に建てられたもので、そこには飛鳥井家の祖先神であり、蹴鞠の神として名高い精大明神が祀られています。
蹴鞠は「蹴球」の祖先
さて、入梅を迎えるころにいよいよ、日本と韓国とでサッカーのW杯がはじまります。現在のサッカー競技が誕生したとされるのは一八六三年、イギリスでのこと。当地のサッカー博物館では、蹴鞠がそのルーツの一つとして紹介されています。磨き抜かれた技と技、鍛え抜かれた肉体と肉体とのぶつかりあいを、たおやかな平安人が見たらどう思うでしょうか? そんなことを考えながら観戦するのも、また一興かもしれません。
丑寅=東北、辰巳=東南、未申=南西、戌亥=北西
百人一首逍遙
花の色は
移りにけりな
いたずらに
わが身よにふる
ながめせしまに
- 小野小町
『小倉百人一首』は、平安から鎌倉の世に生きた歌人、藤原定家によって編まれたとされる歌集で、その名は天智天皇(古代)から順徳天皇(鎌倉)に至る各時代の歌人百人の歌を一首ずつ撰び、京都・嵯峨野は小倉山荘の障子に張ったと伝えられることにちなみます。人生の歌、望郷の歌、恋の歌、季節の趣を愛でた歌など、そのいずれもが千年から千数百年もの昔に詠まれた歌であるにかかわらず、いまなお日本人の心の琴線に触れるのは、まさに珠玉の名作ぞろい故といえるでしょう。
今回ご紹介する歌は、三十六歌仙の一人であり、絶世の美女と称された小野小町の一首です。
その大意は
桜の花の色艶はむなしくあせてしまった。長雨が降りつづく間に。わたしの容色も、すっかり衰えてしまった。むなしく世を過ごし、物思いに耽っている間に。
とされています。華やかりし往時を偲ぶ小町の姿が見えてくるようです。
類いまれなる美貌の持ち主として、数々の浮き名を流したと伝えられる小町。なかでも、九十九晩通い続けながらも最後の日にあえなく果てた深草少将の逸話や、美男として名高い在原業平の求愛を冷たくはねつけた話はよく知られるところです。そんな恋多き女性が、盛りを過ぎた自らの姿や心情をとどめた一首です。
一説によると晩年の小町は世を避け、九十二歳の長寿を全うしこの世を去ったとされています。最期に至る小町の心中は知る由もありません。この歌は、誰にも無情に迫りくる「老い」というものを深く考えさせることでしょう。
いくら美貌を世に謳われた女性であったとしても、人とこころを通わせることがなければ、その暮らしは味気ないものになってしまいます。人と人とが寄り添って生きることの大切さや人の手のぬくもりに、あらためて思いを馳せずにはいられない作品といえるでしょう。