読み物

洗心言

2003年 盛夏の号


伝承の花

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伝承の花【烏瓜(からすうり)】
五つに分かれ、さらに糸のように広がる花弁をもつ烏瓜。夏の夜、ひととき可憐に咲くことから、闇を祓い、幸福を照らす花として尊ばれてきました。

自然の恩恵 共存の知恵

image「日本最後の清流」と呼ばれ、全国にその名を馳せる高知県の四万十川。高峰より出で、三百四十五の支流を集めながら山裾を洗い、野を潤し、やがて太平洋に注ぎこむ大河の道のりは約二百キロにも及び、四国最長を誇ります。
人と自然とがひとつになることで生まれ出ずる、本当の豊かさをご紹介する「自然の恩恵 共存の知恵」。今回は、清らかな流れに架かる橋が教えてくれる、自然との共生のかたちについて話を進めてまいります。

沈む橋として生まれた
四万十川流域の沈下橋
(ちんかばし)

「欄干のないごく
シンプルなかたち」

雄大な峰々に抱かれた四万十川の流れ。険しい渓谷や雄々しい瀑布、神秘的なブナの原生林など、自然の造形がそのままに残された流域の山里を訪ねると、欄干のない橋にいくつも出会います。沈下橋と呼ばれるそれらの橋は、山里同士をつなぐ道として、あるいは子どもたちの遊び場として、流域の暮らしになくてはならない存在であり続けてきました。

では、沈下橋の独特なかたちはどのようにして生まれてきたのでしょうか。工法の簡素化という単純な理由からではありません。ましてや、自然が織りなす風景との調和を考えてのことでもありません。欄干をあえてつくらない橋の構造には、川の流れに寄り添いながら生活を営んできた人々が導き出した、ある知恵がこめられているのです。

「発想の転換が氾濫の
難題を見事解決」

大雨に見舞われるたびに氾濫をくり返し、暴れ川とも呼ばれてきた四万十川。その流れにはかつて、橋桁をロープで繋いだ「流れ橋」が架けられていましたが、大雨の都度流された橋桁を手繰り寄せて復旧する労苦はたいへんなものだったといいます。

そこでコンクリートの橋を架ける計画が持ち上がります。しかし欄干があると万一の増水時に川の流れが悪くなり、さらなる氾濫を引き起こす恐れがありました。流木などが引っかかり、橋そのものが壊れる危険性もありました。それらの難題を解決したのが、大水に沈むことを前提にして欄干のない橋をつくるという発想の転換。そうして昭和二年に、初めての沈下橋が誕生したのです。

「大自然への畏怖が
育んだ共生の知恵」

川の流れに寄り添いながら暮らしてきた人々が、ときに荒れ狂う姿を目の当たりにすることで心に抱いた大自然への畏怖。その念が先に述べた発想の転換を促し、自然に打ち勝とうとする力ではなく、自然に自らを合わせようとする知恵を導き出したのでしょう。

そしてその知恵は、人間本位で自然を支配しようとする近代の開発ではつくり得ない、自然との共生を図るかたちとして今もなお、四万十川流域の暮らしに受け継がれているのです。


平安の遊・藝

「小弓」

image『枕草子』のなかで、清少納言が囲碁や蹴鞠よりもおもしろいと記した遊技、小弓。
平安時代の貴族社会で人気を博し、『源氏物語』にも登場するその遊びはどのようなものだったのでしょうか。

「小弓遊びにいきいきと
興ずる平安貴族」

小弓とは、その名が示す通り小さな弓矢を用いた射的のこと。室内で座ったまま行うのが特徴です。小弓は本格的な競射ではなく、貴族たちが遊びとしてたしなんでいたものと伝わります。『源氏物語』の若菜の上・下、蛍などの巻にも、小弓遊びにいきいきと興ずる平安貴族の姿を見つけることができるほどです。

しかし、一説にかなりの碁打ちであったといわれる清少納言のこと。小弓も単なる遊びとして捉えることなく、一本、一本の矢を精魂こめて放つことで自らの感性を研ぎ澄まし、真剣勝負としての醍醐味を味わっていたのかもしれません。

「江戸時代、庶民にも人気を
博した楊弓(ようきゅう)」

その後、室町時代には小弓を定式化した楊弓という遊びが誕生。楊(やなぎ)でつくった二尺八寸(約八十五センチ)の弓を用い、九寸(約二十七センチ)の矢を七間半(約十三・六メートル)離れた的に向かって射るもので、公家や武士たちの間で人気を博しました。

江戸時代に入ると、楊弓は手軽な娯楽として庶民にも楽しまれるようになり、人の多く集まる寺社付近にはたくさんの射場が設けられました。

「道場で心を澄まし、
自らを振り返るとき」

さて、弓道が最近、静かなブームを呼んでいると聞きます。矢を的に中てるためには腕力よりも強い集中力が必要とされるため、精神鍛錬の助けになるという考えから。あるいは、正しい礼儀作法や美しい動作を身に付けたいという思いからなど、その人気の理由はさまざまだとか。

ともあれ、静かな道場で心を澄ます一瞬は、日常生活では味わうことのできないとき。忙しさに追われ、ともすれば自分さえも見失いがちな現代人にとって、自らを振り返るのにまたとない機会になるのではないでしょうか。


百人一首逍遙

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は島根、隠岐島を訪ねました。

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わたの原 
八十島かけて 
漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟

参議篁
大海原のたくさんの島々を目指して船を漕ぎ出していったと都の人に伝えておくれ、漁師の釣船よ。

参議篁(さんぎたかむら/小野篁)は平安時代前期に活躍した官人。二十一歳で文章生(もんじょうのしょう/当時の大学)試験に及第し、東宮学士(とうぐうがくし)などを経て三十三歳で遣唐副使に任命されました。しかし最初の出帆は失敗に終わり、再出発時には大使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)と諍いを起こした上に嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐島への流罪となりました。

隠岐島は現在の島根県東北の日本海上に位置する群島。断崖絶壁と奇岩がかたちづくる地形は豪壮で、島全体が国立公園に指定されています。歴史をひもとくと、古事記に「隠岐之三子島(おきのみつごしま)」と記されていることなどから、古くより中央に知られた存在であったことが伺えます。七二四年には流刑地となり、篁をはじめ後鳥羽上皇、後醍醐天皇などの高貴な人々が流されてきました。

この歌は、篁が隠岐島へ出航しようとするときに詠んだもの。不安に満ちた心のうちが綴られた一首といわれていますが、先に述べた事情を知らなければ新たな出発への胸の昂ぶりを感じさせる歌と解することもできるでしょう。

さて、篁は絶世の美女と謳われた小野小町の祖父といわれ、当の本人も恋多き人だったのだとか。身長百八十八センチの端麗な容姿を備え、漢詩や和歌はもとより武芸にも秀でた篁を女性たちは放っておかなかったのでしょう。案の定、篁は隠岐島でも阿古那(あこな)という女性と恋に落ちます。しかし嵯峨上皇から帰洛の命が下され、二人の仲は引き裂かれることに。嘆き悲しみ、自殺を決意した阿古那を思いとどまらせようと篁は木彫りの像を自らの分身として託し、隠岐島を去りました。その像は後に阿古那地蔵と呼ばれて人々に親しまれますが、いつしか「あこな」が「あごなし」に転じて歯痛封じの神様に変身。現在、各地に見られるあごなし地蔵のルーツになったといわれています。


小倉山荘 店主より

生涯青春

image人生に、ある気付きを与えてくれる話として、こんな一編があります。

三人の石切工がともに仕事に勤しんでいたときのこと、通りすがりの賢者が「あなた方は何をしているのですか」と尋ねました。一人目は「これで生計を立てているのです」と言い、二人目は「国中で最もよい石切りの仕事をしています」と答え、三人目は夢見るような眼差しで天空を見上げ、「この地にすばらしい聖堂を建てるのです」と熱く語りました。

石切工のそれぞれの言葉が表しているように、人の考え方はまさに三者三様であり、その人生にもさまざまな道があります。しかし、願わくば第三の男のごとく、理想とロマンを忘れることなく、希望に充ちた道を目指したいものです。

志を高く掲げ、瞳が希望の光を捉えている限り、人はたとえ八十の齢を重ねようとも「青春」を謳歌できるもの。そして、その青春の清新さこそが生き生きとした人生の源となることを信じ、今日を生きたいと思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉