読み物

洗心言

2003年 晩秋・初冬の号


伝承の花

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伝承の花【水仙】
平安時代に中国より伝来したという水仙。原産地は彼方の地中海。酷寒のころに咲き、古来より冬の庭園を彩る花として珍重されました。

自然の恩恵 共存の知恵

image岐阜県と富山県にまたがる山間の郷を訪ねると、手と手を合わせたような形の茅葺き屋根をもつ家々に出会います。合掌造(がっしょうづく)りと呼ばれるこれらの住まいの多くは百年以上も前のものですが、近年、環境共生住宅の魁(さきがけ)として世界的な注目を集めているのです。
人と自然とがひとつになることで生まれ出ずる、本当の豊かさをご紹介する「自然の恩恵 共存の知恵」。今回は、独特な建築方法に込められた共生の知恵について、話を進めてまいります。

雪深い山の郷の暮らしを
暖かくつつむ合掌造りの家。

「降りしきる雪を落とす
六十度の急斜面」

合掌造りの家の故郷、飛騨の山間部は日本有数の豪雪地帯として知られるところ。冬になると、人の背丈を超えるほどの雪に覆われることもたびたびだとか。このような厳しい自然とともに生きていくために、先人は合掌造りの家にさまざまな工夫を凝らしました。たとえば雪が滑り落ちるように、六十度の急勾配をつけて葺かれた大きな屋根。その骨格は柔軟性に富んだ木材と荒縄だけでかたちづくられ、強風による揺れや積雪の重みなどをやんわりとかわす、しなやかな構造を勝ち得ています。

そして一階には、見た目も暖かな囲炉裏(いろり)が鎮座。不思議なことに、この囲炉裏はオエ(居間)だけでなく、三~五階建てにも及ぶ住まい全体を優しく暖めてくれるのです。

「厚い茅葺き屋根が
家全体をぽかぽかと」

その秘密は、簀の子張りの天井と厚い茅葺きの屋根にあります。囲炉裏の熱は簀(す)の子のすき間を抜けて上階に立ち上り、さらに屋根裏へと上昇。厚く葺かれた茅は煙を排出するものの、暖められた空気を逃さずに蓄積。そして屋根の急な勾配が熱をはねかえすようにして家全体をぽかぽかと包みこむのです。反対に夏場は厚い屋根が直射日光を和らげ、涼やかな室内環境を実現します。また、木材や荒縄は煙に燻(いぶ)されることによって防虫や防腐の効果を発揮。屋根の茅も煙で樹脂状にコーティングされ、年を経るごとに雪や雨の侵入を防ぐようになるのです。

「桂離宮とともに評価
された建築的価値」

わが国が世界に誇る環境共生住宅として、世界文化遺産にも登録されている合掌造りの家。しかし、その建築的価値をいちはやく見い出し、世界に紹介したのはドイツの著明な建築家、ブルーノ・タウトでした。昭和十年に郷を訪れたタウトは合掌造りを「極めて論理的、合理的」と考え、著書のなかで京都の桂離宮とともに高く評価したのです。

そして今日も日本のいたるところで、合掌造りの家と同じように、先人たちの知恵の結晶が再び陽の目を見るときを静かに待ち続けていることでしょう。私たちが次代に目指さなければならないのは、歴史に埋もれかけた技術や生活文化を自らの手で掘り起こし、それらを暮らしのなかによりよい形でとりいれ、真に心豊かな生活を育んでいくことではないでしょうか。


平安の遊・藝

「打毬(だきゅう)」

image馬を駆り、毬杖(ぎっちょう)と呼ばれるスティックを巧みにさばいて毬(まり)を毬門(きゅうもん・ゴール)に打ち入れる平安時代のスポーツ、それが打毬。
西洋に伝わる紳士の競技、ポロに似た遊芸の歴史を探ってまいりましょう。

「高松塚古墳の
壁画に描かれた毬杖」

打毬のはじまりは約二千年前にさかのぼり、中央アジアの遊牧民によって行われていた球技がそのルーツといわれています。そして、そこから西洋に伝わったものがポロとなり、中国に伝わったものが打毬となったのだそうです。

日本に伝来した時期についてははっきりとわかっていません。七世紀末頃の作とされる高松塚古墳の壁画に、毬杖に似たものが描かれていることから奈良時代以前とする説や、承和(しょうわ)元年(八三四)に仁明天皇が官人に打毬をさせたという記録が『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に残されているため平安時代初期と主張する説など、諸説紛々としています。

「八代将軍吉宗の
肝いりで人気復活」

ともあれ打毬は平安時代には、端午(たんご)の節会(せちえ)の後に行われる宮中の年中行事となり、貴族たちの心を大いに踊らせたといいます。しかし鎌倉時代に入ると、戦乱などにより行事は中止されることに。その後迎えた江戸時代、八代将軍徳川吉宗が騎兵戦の訓練に打毬をとりいれ、諸藩の大名の間でも熱心に行われるようになりました。そして現在、打毬は宮内庁をはじめ、さまざまなところで伝統文化として受け継がれているのです。

「その趣に誇り高き
生きざまを映す」

いくら毬杖さばきに長けていても、馬に乗れなければはじまらないのが打毬。しかも得点するためには馬と呼吸をぴたりと合わせなければならないのですから、打毬を楽しむには互いの信頼関係を細やかに深めることがなによりも大切です。ルーツを同じとする騎馬競技、ポロの根底には騎士道精神とともに動物を愛し労る心が流れているといいますが、それは打毬においても変わりがないといえるでしょう。

力強く、気高く、そして優しく。打毬が平安貴族の心をとりこにしたのは、それが自らの生きざまを華麗に映した遊芸だったからなのかもしれません。


百人一首逍遙

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は京都、小倉山を訪ねました。

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小倉山 
峰のもみぢば 
心あらば
いまひとたびの 
みゆき待たなむ

貞信公
小倉山の峰の紅葉よ。もしも心があるならば、このまま散らずにもう一度の天皇の行幸を待っていておくれ。

小倉山はかつての山城国(やましろのくに)、現在の京都市右京区嵯峨に位置する標高二百九十メートルほどの山。大堰川(おおいがわ)の流れを抱き、桜、新緑、紅葉、雪と折々の美景をたたえる山は平安のいにしえより、貴族たちに別荘地として愛されました。

藤原定家が山荘「時雨亭(しぐれてい)」を営んだとされるのも小倉山の中腹あたり。鎌倉時代前期に、定家は「時雨亭」で『小倉百人一首』を編んだと伝わり、句集名に冠された「小倉」はもちろん山の名に因んだものです。「時雨亭」跡と伝わる場所は常寂光寺(じょうじゃくこうじ)、二尊院(にそんいん)、厭離庵(えんりあん)の三名刹に残されていますが、いずれが本物なのかは確定されていません。

先にも述べたように一年を通して美しい姿を見せる小倉山ですが、なかでも晩秋の風情は格別。京都に寒さが深まる頃、嵐山にかけての一面は紅葉が照り映え、あたかも錦絵のような趣を醸し出すのです。

この歌は、延喜(えんぎ)七年(九○七)の宇多上皇(うだじょうこう)のみゆき(御幸)を待ち望む心を詠んだと伝わる一首。固くなりがちな題材を、紅葉を擬人化することで生き生きと謳いあげているのが特徴です。作者は藤原忠平(ふじわらのただひら)で、貞信公(ていしんこう)は諡(おくりな・生前の徳行に基づいて死後に贈られる称号)。各要職を経て摂政関白太政大臣従一位(せっしょうかんぱくだじょうだいじんいちい)の座に就くなど、藤原氏が勢力を強める基盤をつくった人物として知られています。

菅原道真を失脚させた首謀者、藤原時平(ふじわらのときひら)は異母兄にあたりますが忠平は時平とはちがって道真と親しく、道真が太宰府に流された後も手紙のやりとりを続けたのだとか。時平はまた、宇多上皇が寵愛した道真を追放したことで上皇との仲が険悪になりますが、忠平と上皇との関係はとてもよかったそうで、この歌にはそんな二人の心の結びつきが表わされているようにも思えます。


小倉山荘 店主より

自分こそが人生の造り手

imageフランスのある賢人が、「運命とは創造するものであり、迎え入れるものではない」という言葉を残しています。

運命との出会いは突然のようにやってくるため、それがなにか見えざる力によって仕組まれているように思いがちです。

ところが賢人の一言は、運命とは自らが己に課した試練に過ぎないことを諭しています。

また、英国の哲学者、ジェームス・アレンは「自らの内側でめぐらせる ”思い“こそが、私たちの人生や環境を決める。この確かな法則に従って、人生は創られる」と述べています。

つまり、人生とは自分が想念して創るものであり、どのような境涯も信念によって創り変えることができるのです。

ならばいつも物事を前向きに考え、朗らかな笑顔で日々を生きたいものです。行いは思いの花であり、喜びはその果実なのですから。

報恩感謝 主人 山本雄吉