読み物

洗心言

2004年 仲春の号


伝承の花

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伝承の花
【蕗の薹(ふきのとう)】
春の訪れを告げるように、土を割って花芽を出す蕗の薹。芽は食用となり、味噌仕立てでいただく蕗味噌は美味しい春の風物詩に数えられます。

自然に響く 和のこころ

はるかいにしえより自然と深くかかわり、季節の営みを楽しみながら生きてきた日本人は、心に独特な自然観や芸術観、そして人生観をつちかってきました。その心を訪ねると、現代人が忘れかけている、真に豊かに生きるあり方を見いだすことができます。
四季折々の自然に向けられた、先人の心を訪ねる新連載の「自然に響く 和のこころ」。第一回は待ちわびた春の到来を華やかに告げる花、桜にこめられてきた心情を訪ねます。

「桜」にいのちを感じるこころ。

「世に桜がなければ
こころ穏やかな春の日々」

世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし
これは平安時代の歌人、在原業平が詠んだ一首。大意は、この世にもし桜というものがなければ開花を待ち焦がれてそわそわしたり、枝いっぱいの彩りに心をときめかせたり、はらはらと散りゆく姿を惜しむこともなく、人々は春の日を穏やかに過ごすことだろう。

このように、日本人ははるかいにしえより桜をこよなく愛し、その趣を和歌や小説、能や歌舞伎の題材に求めてきました。こんにちにおいても桜前線の北上は国民的な話題として、毎年のように春先をにぎわせます。昨年、その名も「さくら」というフォークソングが世代を超えて息長く支持されたのも記憶に新しいところでしょう。

では、なぜ、人々はこんなにも桜に思いを馳せ、気持ちを動かされるのでしょうか。

「花のいのちを我が
ことのように優しく慈しむ」

長い冬を耐えしのび、ようやく巡りきた暖かな季節を祝うかのように匂いたつ桜。しかしその華やぎも、ほんの束の間のいのちでしかありません。ならばとばかりに、与えられたときを精いっぱいに咲き誇ろうとする花たち。

日本人が桜に気持ちを動かされる理由。それは一説に、桜のそんな生き様にあるといわれています。美しい色や姿かたちのその奥に息づく、いのちの力強さと切なさを細やかに感じとることで、人々は桜に得もいわれぬ愛おしさを募らせてきたのでしょう。そしてそのように、桜のいのちを我がことのように慈しむ心は、つねに自然を畏れ敬い、自然とともに生きてきた日本人だからこそ育み得たものといわれているのです。

「世がいかに変わろうとも
桜の咲かぬ春はなし」

今年もまた、桜の咲くころが近づいてきました。業平の歌のように、いつ咲くのかが気になり、早くも落ち着かないという方も多くいらっしゃることでしょう。気候が不順な昨今ではなおさら気がかりなものです。しかし世界がどのように変わろうとも、桜の咲かない春などありません。

一生懸命に咲く準備をしている蕾を見守るのも、桜を愛でる風趣のひとつ。そんな大らかな気持ちをもって開花を待ち望み、そして春を迎えたときには枝いっぱいに咲く花の競演を、悔い残すことなく存分に楽しみたいものです。


平安宮 春夏秋冬

「曲水(きょくすい)
の宴(えん)」

image季節の趣を愛でるため。無病息災を祈るため。邪気をはらうため。大宮人は四季折々にさまざまな年中行事を執り行いました。そんな宮中の節目の彩りをご紹介する新連載の「平安宮 春夏秋冬」。
第一回は雅びやかな春の歌会、曲水の宴にご案内します。

「歌を詠み、
流れ来る盃を一献」

桜が花開き、春の陽ざしもうららかな上巳(じょうし)の節供(せっく)(旧暦三月三日)。宴の舞台は清涼殿(せいりょうでん)の庭をゆるやかに流れるひとすじの曲水。雅楽の音色が響くなか、水干(すいかん)を身にまとった童子が朱塗りの盃にお神酒(みき)を注ぎ、羽觴(うしょう)と呼ばれるおしどり型の盃台に載せて曲水に流します。すると水辺に座った狩衣(かりぎぬ)や小袿(こうちぎ)姿の大宮人は羽觴が流れ来るまでに詩歌を短冊にしたため、そして盃をゆるりと一献(いっこん)。この、優雅な宮中行事の起源は古代中国の秦時代。清らかな水に盃を流して穢(けが)れをはらう禊(みそぎ)の儀式としてはじめられたものと伝わります。

「菅原道真も
楽しんだ宮中の宴」

曲水の宴が日本に伝来した時期は定かではありませんが、『日本書紀』をひもとくと四八五年に顕宗(けんそう)天皇がはじめて行ったという記述を見つけることができます。奈良時代に入ると万葉歌人にも好まれ、なかでも大伴家持は自らの屋敷で宴を楽しむほどだったとか。

平安時代には宮中の年中行事となり、清涼殿で繰り広げられた宴には菅原道真をはじめとする文人たちも参宴したと伝えられます。その後曲水の宴は舞台を公家の屋敷に移して行われるようになりますが、残念ながら武家社会となる鎌倉時代に歴史がとだえ、大名たちの間で再び楽しまれるようになるのは江戸時代後期のことでした。

「大宮人に学ぶ
心豊かな暮らし」

そしていま、曲水の宴は春の風物詩として、菅原道真公を祀った福岡の太宰府天満宮や白河上皇にゆかりの深い京都の城南宮(じょうなんぐう)、富山の各願寺(かくがんじ)など全国のさまざまな地で受け継がれているとききます。

それぞれに美しい四季のある国に住みながらも、ともすれば季節感を忘れがちな現代人の暮らし。季節とともに心豊かに生きるためにも、新しい季節の訪れを雅びやかに愛でた大宮人の遊び心を、いつまでも大切にしていきたいものですね。


名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は京都・宇治を訪ねました。

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わが庵は 
都のたつみ 
しかぞすむ
世をうぢ山と 人はいふなり

喜撰法師
出家して、都の東南、鹿の住む宇治山にこんなにも澄んだ心で住む私を、人々は世を憂して隠れたといっているそうな。

この歌は平安時代初期の僧、喜撰法師(きせんほうし)の一首。法師は小野小町や在原業平らとともに「六歌仙(ろっかせん)」に撰された歌人ですが、残されているのはこの一首のみで、宇治山に住んでいたということ以外の素性はわかっていません。その不思議さについては、仙人のように雲に乗ってどこかに消え去ったという伝説が語られているほどです。

宇治山は現在の京都府宇治市を流れる宇治川沿いの標高四百十六メートルの山。法師にちなんで喜撰山(きせんやま)とも呼ばれ、山腹には法師の住処の跡があるのだとか。霧深い山景は、本当に仙人がいてもおかしくないような深山の趣を感じさせます。

宇治山より下流の川沿いは四季折々に美しい景観を見せ、平安貴族の別荘地として栄えたところ。『小倉百人一首』にも、霧立ちこめる夜明けの川を詠んだ藤原定頼(ふじわらのさだより)の歌が撰されています。川沿いはまた『源氏物語』の橋姫から夢浮橋までのいわゆる『宇治十帖』の舞台としても知られています。

さて、どことなく軽妙な味わいのあるこの一首。その秘密は巧みに使われた掛詞、すなわち洒落にあるといわれています。「たつみ」は東南を意味する「巽」と出家を意味する「立つ身」を掛け、「しかぞすむ」は「このように住む」と「鹿の住む」という意味を。「すむ」にはさらに「澄む」を掛け、「うぢ」には「憂し」と「宇治」を掛けるといったように。

歌にはまた、「うぢ」の「卯」と「たつみ」の「辰巳」というように十二支が詠まれていると伝わりますが、つぎに「午」と続くところになぜか「鹿」が登場。一説に「鹿をさして馬となす」という中国の故事によったといわれ、ちなみにこれは「馬鹿」の語源となった故事。飄々(ひょうひょう)と、つかみどころのない法師の人柄がかいま見えるようで、なんとも愉快な歌といえないでしょうか。


小倉山荘 店主より

譲りに如(し)くは莫(な)し

人間は誰でも自己愛に基づいて生きています。何事につけても自分を中心に考えて自己主張に傾きます。
その結果、大なり小なり他人を抑えこもうとして対立が起こります。それはお互いに大変不幸なことです。自由の謳歌と自己主張の対極には、不自由を強いられ、理不尽を被る人がいます。

このような人間界の争いを避ける道を、江戸前期の儒学者、伊藤仁斎は「譲りに如くは莫し」の言葉で言い現わしました。譲りの心をもって人に接することが何よりも大切であると考え、私愛、すなわち自己愛を抑えて相手が主我的な行動に出てもあえて耐え忍び、さらに自分の努力を相手にすぐに求めない平静な心を持ち続けるよう諭しています。

あらゆる人間関係は、相手も自分も、どちらをも満足できるようにもっていくことが肝心です。我欲を抑制して譲りの心をもつことは、人と人とのつながりを円満にする最善の方法です。

報恩感謝 主人 山本雄吉