読み物

洗心言

2004年 初夏の号


伝承の花

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伝承の花【卯の花】
陰暦の卯月(新暦の五月頃)に白く小さな花を咲かせる卯の花。木には霊力があると信じられ、邪悪な精霊を祓(はら)う呪(じゅ)法に用いられました。

自然に響く 和のこころ

四方を海に囲まれ、その懐に長大な山の連なりを抱き、湿潤な温帯モンスーン気候に恵まれた日本は世界でも有数の雨が多い国。春夏秋冬を通して降る雨の量は千七百ミリメートルを超え、世界平均のほぼ二倍に達しています。
四季折々の自然に向けられた、先人の心を訪ねる「自然に響く 和のこころ」。今回は山河と大地をみずみずしく潤し、季節の情景を彩る雨にこめられた心情を訪ねます。

雨を粋に楽しむこころ。

「世に桜がなければ
こころ穏やかな春の日々」

遊び心が紡いだいくつもの優雅な名
木の芽雨(きのめあめ)、穀雨(こくう)、麦雨(ばくう)、梅雨(ばいう)、驟雨(しゅうう)、氷雨(ひさめ)、寒の雨(かんのあめ)・・・。じつにさまざまな名をもつ日本の雨。その数は一説に百を超えるといわれ、雨にこれほど多くの呼び名を与えた言葉は日本語を置いて他にないといわれています。木の芽雨は吹いたばかりの芽を育む春先の湿りをいい、麦雨は麦がたわわに実る晩春の大地を潤す雨。驟雨は馬が驟(はせる)ように激しい夕立を表し、氷雨は冬のはじまりを告げる冷たい雨やみぞれのこと。四季を通して雨の多い、厳しい自然風土に生きる宿命を泰然と受け入れ、そこから趣を見出そうとした先人の遊び心が優雅な雨の名前をいくつも紡ぎ出したのでしょう。

さて、そろそろ梅雨を迎える時節となりました。旧暦の五月が最中であったことから五月雨(さみだれ)ともいわれた長雨に思いを馳せた歌に、こんな一首があります。

「花のいのちを我がことの
ように優しく慈しむ」

恵みの五月雨に馳せた平安人の思い
五月雨の 空も轟(とどろ)に 郭公(ほととぎす) 何を憂しとか 夜ただ鳴くらむ
詠み人は平安時代を代表する歌人の紀貫之。歌の解釈には諸説ありますが、そのひとつに「せっかくの雨が降っているのに、時鳥(ホトトギス)は何をそんなに悲しんでいるのか」との気持ちを詠んだと見るものがあります。

しとしと、じめじめとうっとうしさの代名詞のような梅雨。はるか平安のいにしえにも、その考えに恐らく変わりはなかったことでしょう。しかしこの長雨がなければ稲穂は育たず、秋の実りを迎えることができません。鮮やかな紫陽花(あじさい)の彩りや、つややかに輝く新緑を愛でることもできないのです。

「世がいかに変わろうとも
桜の咲かぬ春はなし」

憂雨を慈雨とよろこぶ心のゆとりを
そう考えると、梅雨は空からのかけがえのない恵みであり、初夏の景色を美しく演出する粋な計らい。自然の移ろいとともに生きるなかでみずみずしい感性を育んできたいにしえの日本人は、しと降る雨にも思いを寄せて、その恩恵と風情をつぶさに感じとっていたのでしょう。

この梅雨時は先人のそんな感性にならい、毎日を過ごしたいものです。そうすれば、たとえ曇り空の下にあっても気持ちは晴れやかに澄みわたり、憂雨を慈雨とよろこぶ心のゆとりも自然と生まれ、うっとうしかった長雨がきっと待ち遠しくなることでしょう。


平安宮 春夏秋冬

「端午の節供
(たんごのせっく)」

image五月の澄みわたる空に、鯉のぼりが颯爽と泳ぐ端午の節供。
男の子の健やかな成長を祈る「こどもの日」として受け継がれているこの節供のはじまりは古代中国。
日本には飛鳥時代に伝わり、邪気を祓う行事として執り行われてきました。

「菖蒲で身を清めた
いにしえの節供」

宮中では旧暦の五月五日が訪れると、各殿舎の軒に菖蒲(しょうぶ)が葺かれ、大宮人たちは菖蒲を浮かべた酒をいただき、さらに菖蒲のお湯で身を清めたと伝わります。こんにちの端午の節供とはかなり異なる趣ですが、そもそも古代の中国でこの節供がはじまったのは災厄を祓うため。旧暦の五月はすでに夏の盛りを迎えており、疫病などが起こりやすかったため、人々は薬効を備えた菖蒲を使って身を守ろうとしたのです。

ちなみに端午の「端」は「初めて」を、「午(うま)」は「午の日」を意味し、元来は五月最初の午の日を表しましたが、漢の時代に五月五日に定められました。これは一説に奇数の重なりを節目として祝った陰陽道(おんみょうどう)の重日思想によるものといわれています。

「尚武」に転じて
男子の節供へ

image菖蒲はまた、その音読みが武事を意味する「尚武(しょうぶ)」に通じることから、天皇の警備に当たった近衛府(このえふ)では端午の節供に馬に乗って弓を射る騎射(うまゆみ)を行いました。武家社会となった鎌倉時代を迎えると騎射は武士たちの間で広く行われるようになり、端午の節供は次第に男子の健やかな成長を祈る日へとその意味あいを変えていきます。やがて室町時代には兜人形が登場し、江戸時代になると「鯉変じて龍となる」という中国の故事にならい、鯉のぼりがあげられるようになったのです。

「梅雨に薫風を吹きこむ
菖蒲の香り」

こんにち、新暦の五月五日に「こどもの日」として祝われる端午の節供。鯉のぼりを見上げ、かしわ餅や粽(ちまき)をいただくのも楽しいものですが、ときには平安時代の趣にふれるのも一興です。それも大宮人の季節感にとことんこだわり、旧暦に祝ってみたいもの。今年の端午は六月二十二日。菖蒲のお湯のさわやかな香りは、蒸し暑い梅雨の最中にきっと、一筋の薫風を吹きこんでくれることでしょう。


名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は福島、信夫を訪ねました。

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みちのくの 
しのぶもぢずり 
誰ゆえに
乱れそめにし 我ならなくに

河原左大臣
信夫捩摺の乱れ模様のように、私の忍ぶ心は乱れはじめています。あなた以外の誰のためにも心乱した私ではないのに。

歌に詠まれた「信夫捩摺(しのぶもぢずり)」とは現在の福島市周辺、かつての陸奥国信夫郡(みちのくのくにしのぶごおり)あたりでつくられていた織物のこと。絹織物を藍などの草木で後染めしたもので、独特の捩(もじ)れた(乱れた)摺り模様が染め抜かれたことから「信夫捩摺」という名がつけられました。その歴史は古く、つくられはじめたのは奈良時代初期。後に陸奥国の特産物として平安朝廷に献上されるようになり、大宮人たちにこよなく愛されたと伝わります。

「信夫捩摺」は「信夫」に「忍ぶ」、「偲ぶ」という意味を掛けられるためか、あるいは捩れた摺り模様の魅力ゆえか、多くの歌に詠まれたことば。作者の河原左大臣(かわらのさだいじん)こと源融(みなもとのとおる)は、陸奥国府(むつこくふ)(現在の宮城県多賀城市)に赴任した際に信夫まで足を伸ばしてこの歌を詠んだといわれており、信夫には歌にまつわるつぎのような伝説が残されています。

ある日、お忍びで信夫にやってきた融は虎女(とらじょ)という美しい娘に心を奪われ、虎女も融の高貴さを慕い、二人はいつしか恋に落ちます。それから一月の間二人は愛を大切に育みますが、都から融の帰京を促す手紙が届き、融は再会を約束して信夫を去ります。

融への思いが募るあまり、恋しい人の姿を映すという石を来る日も来る日も磨く虎女。すると鏡のようになった石に融の面影が浮かび上がり、虎女は狂おしいほどに喜びます。しかしそれも束の間、すでに精根尽き果てていた虎女は病の床に。融から恋歌が届くのはその数日後。融の恋心も自分に負けぬほど激しいことを知った虎女は、歌を抱きしめながらそっと息をひきとります。

再会が叶わなかった悲しい結末ですが、二人の恋心に思いを馳せるほど美しさを感じずにいられない、そんな伝説といえないでしょうか。


小倉山荘 店主より

精力善用 自他共栄(せいりょくぜんよう じたきょうえい)

表題は、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎(かのうじごろう)師範が説いた柔道の理念です。「精力善用」とは心身の持つ全ての力を最大限に生かして、社会のために善い方向に用いることを意味します。「自他共栄」には己の技を磨かせてくれた相手を敬い、感謝することで相互を信頼し、助け合う心を育み、己だけでなく他の人と共に栄えある世の中を築いていこうという志がこめられています。

柔道家の山下泰裕氏は子どもの頃、手の付けられない暴れん坊で人に迷惑ばかりかけていたそうです。柔道を始めた後にこの理念に出会い、精力という言葉を「熱意」や「能力」に置き換えて「精力善用 自他共栄」の意味を考え、他の誰かのためにも自らの力を善い方向に使わなければならないと悟ったと述べています。

人々が、自分の熱意や能力をより善い方向へ生かしたならば、共栄の輪が大きく広がり、世の中は変わると思うばかりです。

報恩感謝 主人 山本雄吉