洗心言
2004年 盛夏の号
伝承の花
-
- 伝承の花【露草】
- 花から青い色がとれ、洗うとすぐに消えるために、友禅染めの下書きに使われる露草。朝露を受けて咲くことからこの名がつけられました。
自然に響く 和のこころ
本格的な夏の暑さを迎える土用の丑の日、京都の下鴨神社で御手洗(みたらし)祭りという神事が行われ、社を流れる小川は多くの人でにぎわいます。無病息災を祈るために、平安時代より受け継がれてきたこの神事には、日本人ならではの自然観が息づいているのです。
四季折々の自然に向けられた、先人の心を訪ねる「自然に響く 和のこころ」。今回は清らかに、そして力強く流れる水にこめられた心情を訪ねます。
「水に流す」というこころ。
「穢れや罪を水で洗い清め
新しく生まれ変わる」
「禊(みそぎ)」という、日本古来の風習をご存知でしょうか。新しい自分に生まれ変わるために、穢れや罪を水で洗い清める行いのことです。下鴨神社の御手洗祭りも、そもそもは「禊」としてはじまったと伝わる神事。このほか滝に打たれることや清水を浴びること、もっと身近なたとえを挙げれば毎日の入浴も立派な「禊」なのです。
このように日本人はいにしえより、水を生きるために不可欠な恵みとして大切にするとともに、穢れや罪さえも洗い清める神聖なものとして尊んできました。それは、絶えずかたちを変えて流れ、ときに恐ろしいまでの力を放つ水に大いなる畏怖の念を抱いていたためといわれています。そう考えると「禊」とは、水の流れに寄り添いながら暮らしの歴史を積み重ねてきた、日本人ならではの自然観を映す風習といえるでしょう。
前向きで、穏やかな心が
託された「水に流す」
さて、日本人の国民性を表す言葉として、「水に流す」という言葉がよく使われます。「自らの責任をあいまいにする」、「都合の悪いことを忘れようとする」といったように、現代ではあまり良くない意味に思われているこの言葉。しかし本来は「禊」を表す意味、すなわち新しい自分に生まれ変わるために、水で穢れや罪を洗い清めるといった前向きな意味で使われていたのだそうです。
さらに、「水に流す」ことは他人の罪を洗い流す許しでもあり、そこには争いを好まず、互いに譲りあうことでともに幸せな社会を築こうとした、日本人の穏やかな心が託されているともいわれているのです。
「自らの過ちを解決する
努力を忘れることなく」
もちろん、「水に流す」ためにはまず、自らの過ちや問題に誠実に向きあうことが大切です。そうした努力を積み重ね、わだかまりを解決したときにはじめて、穢れや罪を洗い清められるのはいうまでもありません。
人には、過ぎたことにこだわるあまり、新しい一歩が踏み出せないことが往々にしてあるものです。そんなとき、「水に流す」ことは私たちの心に大きな勇気と安らぎを与えてくれます。そして、相手の過ちを「水に流す」寛大な心を決して忘れることなく、日々を穏やかに生きていきたいものです。
平安宮 春夏秋冬
「乞巧奠(きこうでん)」
「七夕伝説の
はじまりは古代中国」
天の川の東に、機織りに秀でた女性がいました。天帝の寵愛を受けた彼女は織姫(おりひめ)の名を授かり、牛飼いの牽牛(けんぎゅう)と夫婦になります。しかし織姫は新生活の楽しさにかまけて機を織らなくなり、怒った天帝は彼女を天の川の東に追い返し、年に一度、七月七日の夜にだけ牽牛に逢うことを許しました。
そんな、ロマンチックな七夕伝説が誕生したのは古代中国でのこと。その後いつしか七月七日に伝説にちなんだ行事が行われるようになり、やがて機織りの名手である織姫にあやかって、手芸から詩歌管弦(しいかかんげん)にいたるさまざまな技芸の上達を祈る祭事、乞巧奠へと発展していきました。
「織姫星に願いを
託した平安貴族」
平安時代になると乞巧奠が伝来し、朝廷の節会に定められます。七夕の夜、清涼殿の庭で貴族たちは織姫星を見上げながら、技芸の上達を心から祈ったのでしょう。乞巧奠はその後庶民の間にも広がり、織女祭と出会い、こんにちに伝わる七夕の節供となりました。軒端に揺れる笹の葉に、願い事をしたためた短冊をつるす風習は乞巧奠の名残りとされています。
「時空を超えた
伝説に心を馳せる」
織姫星はこと座のベガといい、一方の牽牛星はわし座のアルタイルといい、それぞれの間には約十六光年のへだたりがあります。これは秒速三十万キロメートルという光の速さをもって駆けつけても十六年かかる距離で、現実的に考えると織姫と牽牛が一年に一度逢うというのは到底無理な話し。
しかし七夕の夜には不粋なことはすべて忘れ、時空を超えて伝わる物語に心を馳せてみたいものです。そして平安貴族の心にならい、またたく星に未来への願いを託してみてはいかがでしょう。
名歌故地探訪
『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は鳥取、因幡を訪ねました。
立ちわかれ
いなばの山の
峰におふる
まつとしきかば
今かへりこむ
- 中納言行平
- 因幡へと去ったら、稲羽山の峰の松ではないが私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。そうであるならすぐ帰って来よう。
『小倉百人一首』十六番となるこの歌の作者は、平城(へいぜい)天皇の孫で阿保(あぼ)親王の第二子の中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)こと在原行平(ありわらのゆきひら)。対となる十七番の歌の作者で、『伊勢物語』の主人公ともいわれる在原業平の異母兄にあたる人物です。行平は大宰権帥(だざいのごんのそち)、中納言、正三位などの要職を歴任した有能な官吏でした。関白の藤原基経(ふじわらのもとつね)とことあるごとに対立を繰り返した硬骨漢としても、その名を知られています。
この歌は行平が三十七歳のときに因幡守(いなばもり)に任命され、因幡国庁に赴任する際、送別の宴で詠んだと伝わる一首。因幡とは現在の鳥取県東部の旧国名。歌に詠まれたいなばの山は鳥取県岩美郡国府町にある稲葉山(稲羽山)のことで、山腹には行平の墓と伝わる塚がひっそりとたたずみます。山のふもと近くには現在、かつての国庁跡が史跡公園として七千平方メートルに渡って広がります。
さて、この歌にはもう一つ解釈があるといわれています。それは、ある女性たちとの別れを惜しんで詠んだというもの。因幡への道中、行平は須磨の浦(現在の神戸・須磨)に立ち寄り、そこで見初めた美しい海女の姉妹、松風(まつかぜ)と村雨(むらさめ)を因幡に連れていきます。そして二人と一緒に暮らし、四年後に帰京するときに、離別の悲しみを歌にしたためたという解釈です。
これは行平がある事件に関わり、須磨に一時都落ちしていたときの様子をもとにした解釈で、そこからは「松風」という能の物語がつくられています。また、紫式部はへき地で世をはかなんだ行平の姿に重ねて、須磨に流された光源氏の心情を描いたと伝えられます。
有能な官吏と悲劇の貴公子、どちらが行平の本当の姿だったのか、思いをめぐらせてみるのもまた楽しいものです。
小倉山荘 店主より
道は爾(ちか)きに在り、而(しか)るにこれを遠きに求む
表題は、孟子が説いた人生の教訓です。「道」とは人が人として踏み行うべき正しい道を意味し、それは至って身近なところにあるもの。にも関わらず人々はそのことを忘れて、あるいは忘れたふりをしてどこか遠いところに求め、ことさら難しいことを有り難がり、結局は何も実行できないで終わることを喝破した言葉です。
そして孟子は「道」の一つとして人を敬うことを挙げ、一人ひとりがその道を踏み行えば世の中は安泰になると述べています。良好な人間関係は平和な社会を築くための基本であり、孟子の教えはまさに核心をついたものといえます。
昨今、巷で道徳について語られる機会が多くなりました。しかし、そのほとんどが机上の空論のように思え、事実誰も行動に移せていないのが現状です。ならばここは孟子の教えに従い、身近な人を敬うことから始めてみてはいかがでしょうか。
報恩感謝 主人 山本雄吉