読み物

洗心言

2004年 初秋の号


伝承の花

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伝承の花
【秋桜(コスモス)】
桜を思わせる花の形からその名が付けられた秋桜。繊細な姿とは異なり、台風で倒れても再び花を咲かせるほど強い生命力を誇ります。

自然に響く 和のこころ

「花鳥風月」とたとえられるように、古来より美しきものの代名詞として受け継がれてきた月。なかでもススキの穂がそよぐ初秋は名月の季節であり、「十五夜」には日本各地で月明かりを愛でるひとときが楽しまれてきました。
四季折々の自然に向けられた、先人の心を訪ねる「自然に響く 和のこころ」。今回は夜の闇をやわらかに照らす月にこめられた心情を訪ねます。

「月」に祈りを捧げるこころ。

「十五夜」と「十三夜」
を楽しんだ平安貴族」

月見の慣わしは唐代の中国で生まれ、わが国には平安時代初期に渡来したと伝わります。中秋(ちゅうしゅう)と呼ばれる陰暦の八月十五日頃に行われるようになったのは、この時期には暑さがゆるみ、空気も清らかに澄み、中天に浮かぶ満月がことさら美しく見えるため。なによりも風流を好んだ平安貴族たちは月をただ眺めるだけではよしとせず、池や川に舟を浮かべて管弦の調べに心を躍らせたり、即興で和歌を吟じたりしながら「十五夜」の月を愛でたそうです。

さらに一度だけでは飽き足らなかったのか、陰暦九月十三日の夜には後の月見と呼ばれる観月の宴、「十三夜」も楽しまれるようになりました。そして時代の移り変わりとともに、月見は庶民の間にも広まり、いつしか秋を代表する行事に育っていったのです。

「月への畏敬と感謝の
気持ちがこめられた儀式」

では、なぜ、日本人は月見をこよなく愛してきたのでしょうか。その理由として、風流を楽しむ心の存在以外につぎのような説が語られています。

はるかいにしえの昔、日本人は月と密接に生きていました。月の満ち欠けで時間をはかり、月日を知ることで農業を行いました。また、月の引力による潮の満ち引きは、漁業をなりわいとする人々にとってたいへん重要な問題でした。つまり、月は生きる糧をもたらす大いなる自然の恵みであり、それに対する畏敬と感謝の気持ちが風雅な遊び心と結ばれ、月見を愛するようになったといわれているのです。ちなみに、「十五夜」に里芋を供えるのは、秋の実りへの感謝の儀式の名残りなのだそうです。

「先人の心にならい、
秋の夜長を風流に過ごす」

やわらかな光で夜の闇を照らすだけでなく、大自然の摂理をも支配する月の偉大さを、日々の暮らしのなかで感じとっていた先人たち。その繊細な感性は現代を生きる私たちに、自然と共生する尊さや素晴らしさを教えてくれるかのようです。そしてまた、暮らしに風流な趣を取りこもうとした遊び心もお手本にしたいもの。ならば今年の「十五夜」と「十三夜」には電気を消して、テレビを切り、先人たちがいにしえに仰ぎ見たのと同じ月を望み、自然への感謝の気持ちを捧げてみるのも一興です。それは実に、風流な秋の夜長の過ごし方といえないでしょうか。


平安宮 春夏秋冬

「重陽(ちょうよう)の節供」

image陰暦の九月九日、宮中では観菊の宴が開かれ、平安貴族たちは薫り高い菊花を浮かべた酒を賜りながら無病息災や長寿を祈願したと伝わります。
その節供は「重陽」と呼ばれ、江戸時代まで盛んに祝われました。

陽の極まった
数が重なり「重陽」

古来、中国の陰陽思想では奇数を陽の数として考え、なかでも九は一桁では最大の陽の数であるため、陽の極まった数として尊ばれました。陰陽思想にはまた重日(ちょうじつ)という考え方があり、それは一月一日(元旦)や三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)といった陽の数が重なる日を特別な日付とし、節供を祝うというもの。九月九日は陽の極まった数の重日ということから「重陽」と呼ばれ、季節の花である菊を浮かべた酒を飲んだり、茱萸(しゅゆ)という薫り高い木の実を髪や身につけたりして邪気を祓う行事が執り行われました。

「五節供の最後の
行事として隆盛」

image重陽の節供が日本に伝来するのは平安時代初期のこと。九月九日が訪れると内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)では、端午の節供に掛けられた菖蒲の薬玉が茱萸の実をつめた袋に掛け替えられました。そして、中国からもたらされたばかりの菊花を愛でながら貴族たちは詩歌を吟じ、菊花酒を賜り、季節の節目を祝うとともに長寿を祈願したといわれています。

その後、室町時代を迎える頃には、重陽の節供は武士や庶民の間にも広がります。そして江戸時代には、重陽は正月七日の人日(じんじつ)、上巳、端午、七夕からなる五節供の最後を飾る行事として盛んに祝われました。

「十三夜の前に
季節の節目を祝う」

ところが明治時代になると、重陽の節供は急激にすたれてしまいます。その理由は陰暦から新暦へと制度が変わり、九月九日が菊の盛りでなくなったため。しかし重陽は、このまま忘れ去るにはあまりに惜しい節供です。大輪の菊を愛でるのは難しくとも、菊花酒や菊湯などは家庭で手軽に楽しむことができます。今年の重陽は十月二十二日。四日後の「十三夜」の月を愛でる前に、平安人の優雅に思いを馳せながら、季節の節目を薫り高く祝ってみてはいかがでしょうか。


名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は栃木、伊吹山を訪ねました。

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かくとだに 
えやはいぶきの 
さしも草
さしも知らじな 
燃ゆる思ひを

藤原実方
こんなにも貴女を慕う心をどうして打ち明けられましょう。伊吹山のさしも草、さしもそれほどとは知らないでしょう。じりじりと燃える思いを。

『小倉百人一首』に撰された歌のなかでも、技巧を極めた恋歌としてつとに名高いこの一首。伊吹山を表わす「いぶき」は言うの意味に、さらに「いぶき」はモグサの名産地であることから「さしも草」に掛けられています。その「さしも草」はつぎの「さしも」を導き、「思ひ」の「ひ」は火の意味に掛かるとともにモグサの縁語となり、歌の解釈にさらなる奥行きを与えています。

伊吹山は下野(しもつけ)(現在の栃木県)の山とする説と、近江(おうみ)(同・滋賀県)の山とする説があります。どちらの伊吹山もモグサの名産地であった故の二説ですが、作者の藤原実方(ふじわらのさねかた)が晩年に陸奥国(むつのくに)(現在の東北地方)に左遷されたことなどから考えると、どうやら下野説が有力のようです。その伊吹山は小高い丘のような佇まいで、日光開山の祖として名高い勝道上人(しょうどうしょうにん)の開基と伝わる古刹、善応寺(ぜんおうじ)の観音堂があることでも知られる山。近所にはまた、東国の歌枕として名を馳せた沼地、しめじが原が残されています。

さて、藤原実方は光源氏のモデルの一人といわれ、かなりの美男子であったと伝わる人物。情熱家であった実方には恋愛関係も数多く、清少納言や小大君(こだいのきみ)といった才女たちと盛んに浮き名を流しました。しかしその情熱的な性格が災いしてか、実方は先にも述べたように陸奥国に左遷されることになります。桜狩りの席で受けた藤原行成(ふじわらのゆきなり)からの侮辱を恨むあまり、殿上で行成に狼藉を働くに至り、一条天皇の怒りに触れてしまったのです。そうして陸奥守となった実方は任地で、四十歳あまりの短い生涯を終えます。

一説によると実方は清少納言にかなりの恋心を抱いていたそうで、この歌も納言に贈った一首とか。巧みに凝らされた技の裏には、愛する人への熱い思いが託されていたのですね。


小倉山荘 店主より

種をまくのは、収穫するほどむずかしくはない「ゲーテ」

初秋を迎え、陽に一層と輝き、波をつくって揺れる稲穂を眺める頃となりました。小さな苗から立派に実った稲穂を見ると、丹精込めて育てた人の労苦を感じずにはいられません。

表題の言葉は、「何を行うにも、良い結果を得るためには地道な努力の積み重ねが大切であり、それを怠ると成功はあり得ない」と諭しています。

苗を植えるのももちろんたいへんな作業ですが、数カ月間、雨風や病気に気を配り、片時も弛むことなく稲を育むのは、恐らく想像以上に厳しい仕事でしょう。しかし辛さを厭わず、稲穂を豊かに実らせた仕事ぶりは表題の至言を借りずとも賞賛に値し、さらには物づくりの原点を知らされる思いがします。

そんな労苦の結晶ともいえる米、一粒一粒を大切にしながら、私どもも地道な努力を重ねてまいりたいと思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉