読み物

洗心言

2005年 初夏の号


伝承の色

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伝承の色【菖蒲】
菖蒲の花色を由来とし、平安時代には襲(かさね)の色目として珍重された高貴な色。「尚武」に通じることから、端午の節供の服色ともされていました。

こころを彩る千年のことば

今年も初夏を迎えるころとなりました。この時節になると、山里で鳴きはじめるのが渡り鳥のホトトギス。平安時代には、ホトトギスの初音(その年の最初の鳴き声)を聞くのがたいへん典雅な遊びであったと伝えられます。珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「時鳥」という季語にこめられた平安人の思いを訪ねます。

「初音を聞くために
夜を徹した平安人」

時鳥(ほととぎす) 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる
これは『小倉百人一首』の第八十一番、後徳大寺左大臣の一首です。大意は「ホトトギスが鳴いた方向を見ても姿はなく、ただ有り明けの月が空に残っているばかり」。ホトトギスはたいへんすばしこい鳥で、鳴いたかと思ってそちらを見ると、他の木に移っていることが多々あるのだとか。夜を徹して山にこもり、初音を聞くことに成功したものの、声の主の姿を見逃した無念。この歌には、作者のそんな思いが詠みこまれているかのようです。

ところで、ホトトギスは「テッペンカケタカ」、「キョッキョッキョッ」といった奇妙な声を発し、ウグイスやヒバリのように美しい音色で鳴くわけではありません。それなのに、平安人はなぜ夜を徹してまで初音を聞こうとしたのでしょうか。

「時鳥」の名にこめられた
平安人の思い

自然の風流を愛し、その趣を和歌や文学にしたためてきた平安人にとって、四季の移り変わりを知ることは何よりも大切なことでした。それゆえに、新しい夏の訪れをいち早く報せるように鳴くホトトギスはなくてはならない存在であり、その初音を聞くためにはどんな労もいとわなかったのです。

事実、「時鳥」という言葉には夏を告げる鳥という意味がこめられており、この季語一つからも平安人がホトトギスに寄せた思いをうかがい知ることができます。

「杜鵑」「黄昏鳥」
「無常鳥」「不如帰」

さて、ホトトギスは「時鳥」の他にも多彩な字があてられる鳥です。「杜鵑」は古代中国の王、杜宇が死後にホトトギスになったという伝説から。「郭公」は姿形の似たカッコウと見間違えたために、「黄昏鳥」は夜に鳴くために。「無常鳥」は時に悲痛に鳴くその声から連想した名で、「不如帰」は一度飛び立つと二度と戻らぬ習性を表わしたものだとか。

これら一連の名を見ると、ホトトギスは夏の訪れを告げるだけでなく人の想像力を豊かにかきたてる鳥のようで、ならば一度はその姿と鳴き声を目と耳でじかに確認してみたいものです。新緑のまぶしい山に入り、清々しい空気につつまれて、ホトトギスの声がするのをじっと待つ。平安人の風流にならい、世俗のことなど一切忘れ、ただ無心な時を楽しまれてみてはいかがでしょうか。


平安のしきたりに学ぶ

「平安のしきたりに学ぶ 
更衣の巻 」

入梅を間近に控え、そろそろ衣替えの時節となりました。春から夏へ、季節のうつろいにあわせて装いを軽やかに移し、心までも涼やかに彩るこのしきたりの起源は、平安の宮中で行われていた「更衣」にまでさかのぼることができます。

「旧暦の四月一日、
夏装束に衣替え」

更衣(こうい)のしきたりは中国に由来し、宮中では平安時代中期からはじめられたと伝わります。春と夏の境目の四月一日(旧暦。今年は五月八日。冬装束への更衣は旧暦の十月一日)になると、お祓いの意味もこめて、装束の素材や色が涼やかなものへとあらためられました。同時に扇の素材も檜から軽やかな竹と和紙に変えられたといい、そこからは涼を楽しむためにさまざまな工夫を凝らした平安貴族の遊び心を垣間見ることができます。

「天皇の着替えを
司った女官、更衣」

さて、更衣というと『源氏物語』の主人公である光源氏の母、桐壷更衣(きりつぼのこうい)を思い出される方も多いことでしょう。時の天皇、桐壷帝(きりつぼてい)の寵愛を受けた桐壷更衣は女官の一人であり、更衣とは職名を表わす言葉。その仕事は文字通り天皇の着替えを司るもので、皇后、中宮(ちゅうぐう)、女御(にょうご)につぐ地位にありました。しきたりの更衣はいつしか「衣替え」と呼ばれるようになるのですが、それは職名の更衣との混同を避けるためだったといわれています。

その後、衣替えは民間でも行われるようになり、時代を越えて受け継がれていきます。江戸時代には春夏秋冬、年に四回の衣替えが幕府によって制度化されます。

「袷、薄物、単衣、
年三種の着分け」

こんにちの衣替えは、六月一日と十月一日の年二回行うことは皆さんもよくご存じの通りでしょう。ところで和服の世界では、年に三種の着物が着分けられています。十月一日から五月末日までは裏地のついた袷(あわせ)。七月一日から八月末日までは裏地がなく、麻など透けた生地の一枚仕立ての薄物(うすもの)。六月と九月は袷から裏地をとった一枚仕立ての単衣(ひとえ)、というように。これは四季の移り変わりを肌で感じながら生きてきた、日本人ならではの美しいしきたりです。洋服中心の現代社会ですが、このような季節感と美意識を、いつまでも大切に受け継いでいきたいものです。


名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は兵庫、高砂を訪ねました。

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たれをかも 
知る人にせむ 
高砂の
松も昔の 友ならなくに

藤原興風
年老いた私は誰を友とすればよいのか。古くからの友はみな亡くなり、年老いた高砂の松でさえ昔からの友ではないのだから。

加古川の河口に広がり、おだやかな瀬戸内海に面する高砂(たかさご・現在の兵庫県高砂市)。ここは万葉のいにしえより、白砂青松の地として知られていましたが、高砂の松がその名をいっそう馳せるのは平安時代の終わりころでした。木に精霊が宿ると信じる樹木崇拝が全国的に広まり、それと同時に高砂の松が多くの詩歌に詠まれるようになったのです。

数ある松のなかでも特に高名だったのが、高砂神社に鎮座する相生(あいおい)の松。創建とともに境内に生え出たと伝わるこの松は、一つの根から二つの幹に分かれたそのかたちから、夫婦和合を示す神木として崇められてきました。高砂神社には現在も、五代目となる相生の松が堂々とした姿を見せています。

ちなみに「高砂やこの浦舟に帆を上げて」でお馴染みの、結婚式に欠かせない謡曲「高砂」は能の始祖、世阿弥(ぜあみ)が高砂の松を題材にしてつくったものといわれています。

作者の藤原興風(ふじわらのおきかぜ)は平安時代の中ごろを生きた官吏で、相模(さがみ)や上野(こうずけ)、下総(しもうさ)など、さまざまな地方官を歴任したと伝わります。官位はさほど高くなかったそうですが、歌人としての才能に優れ、三十六歌仙にも選ばれています。また管弦をたしなみ、琴の名手であったともいわれています。

興風の正確な生没年は不詳ですが、一説に彼は長寿をまっとうしたそうで、この歌には長生きしたがゆえの孤独感が切々と詠まれています。藤原定家も同様の境遇にあったそうで、歌にこめられた心情への共感から『小倉百人一首』に撰したといわれています。

長寿は喜びであり、そして悲しみでもある。そんな、人生の皮肉への嘆きを見事につづった一首といえるでしょう。


小倉山荘 店主より

雨は一人だけに降り注ぐわけではない「ロングフェロー」

長く、冷たく、時に激しく降る雨。しかし、それは決して一人だけに降り注ぐわけではなく、すべての人に等しく降り掛かるものです。そして、どんなに長い雨もいつか必ず上がり、雲の切れ間からは青空が現われ、明るい陽が射します。

心に打ちつける雨のような試練を迎えたとき、アメリカの詩人が遺した表題の言葉は、私たちの心に大きなやすらぎを与えるとともに、試練を「運命」として泰然と受け入れ、どのようなときにも希望を忘れることなく生きることの大切さを教えます。

今年も、梅雨の訪れを迎える時節となりました。長く降り止まぬ雨に心が塞ぐときにはぜひ、表題の言葉を思い出していただきたいと思います。そして、恵みの雨に潤された大地から新たな命が育まれ、より美しく、豊かな明日が訪れることを願いながら、一日、一日を大切に過ごしたいものです。

報恩感謝 主人 山本雄吉