読み物

洗心言

2006年 初夏の号


伝統文様

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伝統文様【葵】
京都の賀茂神社(上賀茂、下鴨神社)の神紋として、古代より尊ばれた葵。江戸時代には徳川家の家紋として、絶対的な権威を誇りました。

こころを彩る千年のことば

日本の初夏の風物詩といえば、螢の灯火。清々しい新緑につつまれた山の麓で、小川のせせらぎを照らすように飛ぶ螢の姿はあたかも夜空にまたたく星のようで、見る者の心を明るく満たしてくれます。珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「螢」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「人の心を眩く、美しく照らす螢」

平安人にこよなく愛された灯火
夕されば 螢よりけに 燃ゆれども 光見ねばや 人のつれなき
これは平安時代を代表する歌人、紀友則の一首。大意は「夕方になると私の想いは螢火よりも熱く燃えるが、それは目に映らないもの。だからあの人は気づかず、私につれなくされている」。螢を小道具に、恋心の機微を巧みに描いた名歌です。同じく平安の世を生きた紫式部は、『源氏物語』の第二十五帖の巻名を「螢」と名づけ、そのなかで、光源氏の放った螢の光で玉鬘(たまかずら)の美しさを浮かび上がらせるという、たいへんロマンチックな演出を施しました。

そして女流名歌人として、紫式部と並び称される清少納言は『枕草子』の冒頭に、「月夜はいうまでもないが、螢がたくさん乱れ飛ぶ闇夜もよいものだ。一、二匹がかすかに光って飛んでいるのもまたよい」と、夏の趣きをしたためています。

「その光は大宙を照らす
天の川のように」

螢を題材とした歌や物語をさらに探しはじめると、実に枚挙にいとまがなく、このことからも遥かいにしえより、螢の灯火が日本人の心を虜にしてきたことがよくわかります。電気もなく夜の闇がいまよりもっと深かった時代、その煌めきはたいへん眩しく、美しく目に映ったことでしょう。科学が未発達だった昔日、その輝きは他のどのようなことよりも不可思議に思えたことでしょう。

先人はそんな螢の灯火を、大いなるロマンと畏敬の念をこめて、大宙(おおぞら)にまたたく星にたとえました。そして、星が垂れるものという意味から、「星垂る(ほたる)」と名づけたといわれています。なるほど、無数の螢が乱舞する姿は、夜空を照らす天の川によく似ています。

「消えゆく輝きへの
思いを新たにする時」

清流で幼虫期を過ごし、土の中で蛹(さなぎ)となり、じっくりと一年の時をかけて空へ飛び立つ螢。しかし、その命はわずか十日ほどで終わりを迎えます。星にくらべるとあまりにも短く、はかない一生ですが、美しい輝きには何の遜色もありません。

ところが種々の開発にともなう環境汚染により、日本の至るところで、螢の灯火は消えゆくばかりといわれています。かけがえのない自然の営みを末永く守るためにも、さらには先人の心を後世に伝えるためにも、いまはまさに、螢の命への思いを新たにする時といえないでしょうか。


平安のまつり

「平安のまつり 葵祭」

祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられ、 そのなかでも最も古い歴史を誇るのが五月十五日の葵祭。
『源氏物語』をはじめとする平安文学にも登場し、 千年の時を超えて受け継がれてきた祭行列は、 今年も変わることなく新緑の都大路を優雅に彩ります。

「総勢五百名の王朝行列が
都大路を練り歩く」

葵祭は六世紀の欽明(きんめい)天皇の時代に、疫病などを鎮めるためにはじめられた祭事。賀茂別雷(かもわけいかづち)(上賀茂)、賀茂御祖(かもみおや)(下鴨)両神社の例祭として行われ、その内容も流鏑馬に代表される勇壮なものでした。

平安時代に入ると、華麗な装束の一行や美しく飾られた牛車が都大路に繰り出すようになり、京の人々の間で大人気を博し、祭といえばこの祭のことを指すほどだったといいます。『源氏物語』の「葵」の巻をひもとくと、行列見物の場所とりをめぐり、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)(光源氏の恋人)と葵の上(正妻)とがいさかいを起こすくだりを見つけることができます。

その後、戦国時代や東京遷都後、太平洋戦争中の一時期に中断されるものの、葵祭は今日まで途絶えることなく受け継がれ、京都の初夏の風物詩になっています。

現在の祭は「路頭(ろとう)の儀」と「社頭(しゃとう)の儀」の二つからなり、「路頭の儀」は京都御苑から下鴨神社、さらには上賀茂神社までの約八キロメートルの道のりを練り歩く、総勢五百名の王朝行列。その主役は斎王代(さいおうだい)と呼ばれる女性で、十二単をまとって輿(こし)に乗る姿には、なんともいえぬ雅びやかな雰囲気が漂います。

行列がそれぞれの神社に到着すると、神前で執り行われるのが「社頭の儀」。勅使による祭文奏上の後、二頭の馬が舞殿を三周する牽馬(ひきうま)の儀、舞人による東遊(あずまあそび)の舞、走馬(そうめ)の儀などが繰り広げられ、祭はフィナーレを迎えます。

さて、名前からして優雅な葵祭ですが、これはあくまでも通称で、正式には「賀茂祭」といいます。葵祭の名は宮中の殿舎や神社の社殿、牛車、行列の人々の装束などを、賀茂神社(上賀茂、下鴨神社)の神紋である葵の葉で飾ることに由来します。ちなみに、これらの飾りは平安遷都後の大同二年(八〇七)にはじめられたといいますから、紫式部もきっと、可憐な葵をつけた雅びやかな祭行列に、胸をときめかせていたことでしょう。

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名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は大阪、堺、高石を訪ねました。

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音に聞く 
高師の浜の 
あだ波は
かけじや袖の 濡れもこそすれ

祐子内親王家紀伊
噂に高い高師の浜の、いたずらに立つ波にはかからないようにしましょう。袖が濡れると大変です。浮気者で名高いあなたのお言葉は心にかけまいと思います。後で袖が涙で濡れるといけませんから。

白浜に緑の松林が続く高師の浜は、その風光明媚さゆえ、万葉のむかしより多くの粋人に愛された地。『小倉百人一首』を編んだ藤原定家も、高師の浜のあだ波を題材にした歌を残しています。その後、南北朝のころに覚明という僧が大雄寺という寺を建て、これが「浜の寺」と呼ばれたことから浜寺という地名が生まれました。

明治時代、ここにいち早く鉄道が開通し、浜寺は住宅地として発展します。そして同じく明治時代に、日本初の公園「浜寺公園」が誕生すると、あたりは海水浴やテニスが楽しめるハイカラな別荘地として、関西一円にその名を轟かせました。

現在の浜寺公園は、大阪府の堺市から高石市にかけて広がり、「名松百選」に数えられる松林を愛でる人や、行楽に訪れた多くの家族連れで賑わいます。

この歌が詠まれたのは、「艶書(えんしょ)合わせ」という歌会でのこと。これは男性から女性へ歌を贈り、女性から男性へ返歌するというもので、平安時代の終わりごろに流行しました。

紀伊は、中納言俊忠(ちゅうなごんとしただ)の「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ(人知れずあなたを思っています。浦風に波が寄るように、貴方のもとへ通いたいものです)」という誘いを、この歌でさらりとかわしたのだそうです。もちろん、二人のやりとりは本気ではなく、歌の技巧を競い合っただけのことですが。ちなみにこのとき、俊忠は二十歳代の後半で、紀伊は七十歳ぐらい。どのような人物だったのか、詳しいことはあまりわかっていませんが、きっととても可愛らしく、ユーモア感覚に長けた女性だったのでしょう。


小倉山荘 店主より

「吾唯足知」

京都の龍安寺に、徳川光圀公が寄進したと伝わるつくばいがあります。それは銭形をし、中央には水をためる正方形の孔が開き、孔に沿って時計回りに「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と刻まれています。読んで字の如く、「私は満ち足りていることだけを知る」という意味です。「ほどほどに満足することを知っている人は、貧しくても幸せであり、満足することを知らない人はたとえ金持ちであっても不幸である」ということから、満足を知ることは幸せに生きるために、とても大切なことと説いています。

私たちは、他人と比べて幸、不幸を感じるようですが、人間の欲望には際限がなく、それを追い求め続けていてはきりがありません。どこかで満足することを知らなければ、つくばいの銘が説くように、心の幸せには辿り着けないのではないでしょうか。

五月下旬に開店予定の小倉山荘「竹生の郷」の庭には、標題の言葉に倣った「唯足知吉(ただ たることを しって きちとなす)」と刻んだつくばいを置き、自身の永遠の戒めにしたいと考えております。

報恩感謝 主人 山本雄吉