読み物

洗心言

2006年 盛夏の号


伝統文様

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伝統文様
【澤潟(おもだか)】
池の淵や水田などで白い花を咲かせる澤潟。鏃(やじり)型の葉が特徴で、平安時代から文様として好まれ、後に武家の家紋として珍重されました。

こころを彩る千年のことば

夏の夜空といえば、思い出すのが天の川。闇にかかる光の帯を眺めるほどに、人はロマンチックな心になるものです。そのためか、天の川をもとに七夕伝説が生まれ、一年に一度の逢瀬を描いた恋物語はいまも、私たちの心を掴んで離しません。
珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る千年のことば」。今回は、「天の川」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「宙(おおぞら)への果て
しない浪漫を語る天の川」

織姫と牽牛、一年に一度の逢瀬のひととき
三十六歌仙に数えられた、平安時代の女流歌人、中務(なかつかさ)につぎの一首があります。

天の川 かはべ涼しき たなばたに 扇の風を なほや貸さまし
大意は、「織姫と牽牛に扇を貸しましょうか。天の川のほとりが、いっそう涼しくなるように」。七夕の夜、一年に一度の出逢いを果たす二人。その逢瀬が、少しでも素敵なひとときになるよう願う、女性ならではの細やかな心が込められた名歌といえるでしょう。

天の川の正体は、皆様もよくご存知の通り無数の星たちです。天の川は、天文用語で銀河系といいます。地球を含む太陽系は銀河系の内側にあり、天の川は太陽系の外側に広がる銀河系のこと。この、銀河という言葉は古代の中国で生まれ、織姫と牽牛の七夕伝説もいにしえの中国で誕生し、日本に伝わりました。

「奈良時代、銀の河が
日本に伝わり、天の川へ」

七夕伝説が日本に渡来したのは、奈良時代のことでした。当時の日本は、中国の進んだ文化を積極的に取り入れようとしていたころで、七夕伝説もそのような経緯からもたらされた文化の一つ。『万葉集』をひもとくと、七夕を題材にした恋歌を百三十以上も見つけることができます。しかし、それらの歌を見ると、天河や天川といった言葉が使われているのに気づきます。

銀河をなぜ、天河や天川と呼ぶようになったのか、詳しいことはわかっていません。もしかすると先人の心には、中国の影響を受けながらも、独自の言葉で宙への浪漫を表現したいという願いがあったのかもしれません。ともあれ、夜空にかかる光の帯を天に流れる川にたとえた美意識は、銀河と銘打った感覚に負けず劣らずといえないでしょうか。

「いにしえの粋人が
満喫した風流に心遊ばせる」

ところで、梅雨の最中の七月七日は晴れた夜空を眺めるには生憎の季節。本来、七夕は旧暦で祝われ、その頃は梅雨も明け、美しい天の川を愛でることができたのです。さらに、最近では大気汚染や過剰なネオンなどにより、天の川を見るのが年々難しくなっています。

しかし、不満をいっていてもはじまりません。新暦の七夕で見逃しても、旧暦の七月七日(今年は七月三十一日)があります。もし、そのときにも天の川を愛でられなかったとしても、夜空を見上げながらゆっくり過ごす喜び、いにしえの粋人たちが満喫したのと同じ風流に、心がそっと満たされることでしょう。


平安のまつり

四季折々、京都にはさまざまな祭があり、遥か平安時代の昔より受け継がれてきた祭事が いまも人々の暮らしのなかにとけこんでいます。
新連載の「平安のまつり」では、京都ならではの 歴史をもつ祭を季節にあわせてご紹介してまいります。

「平安の祭 祇園祭」

八坂神社の例祭であり、日本の三大祭に数えられる祇園祭。
その起源は九世紀にはじめられた祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)にあり、現在のような様式になったのは、戦国時代の応仁の乱の後のこと。
そして二十一世紀のいまも、七月の声を聞くと京の町は厳かに、そして雅びやかに、古式ゆかしい祭の情緒につつまれます。

一日、三十二の山鉾町で祭の無事を祈願する吉符(きっぷ)入りがはじまると、いよいよ祇園祭の幕開けです。翌二日は鬮(くじ)取り式。先頭の長刀鉾をはじめ、函谷鉾(かんこぼこ)、放下鉾(ほうかぼこ)、岩戸山(いわとやま)、船鉾(ふねぼこ)、北観音山(きたかんのんやま)、橋弁慶山(はしべんけいやま)、南観音山(みなみかんのんやま)の八基を除いた山鉾の巡行の順番が、鬮引きで決められます。

七夕が過ぎ、梅雨明けが待ち遠しい十日、四条大橋で行われるのが神輿(みこし)洗い。これは、山鉾巡行後の神幸祭(しんこうさい)や還幸祭(かんこうさい)で担がれる、中御座(なかござ)の神輿を鴨川の水で洗い浄める神事。同じく十日からは鉾が建てられはじめ、祭気分も本格的に盛り上がります。

十三日には稚児(ちご)が八坂神社に参り、五位少将の位を授かる儀式が執り行われます。稚児は、巡行の先頭に立つ長刀鉾に乗り、山鉾を神域に導く注連縄(しめなわ)切りを果たす祭の主役。毎年八坂神社の氏子のなかから、十歳前後の男の子が選ばれます。

十四日、この日からの三日間は山鉾巡行の宵々々山(よいよいよいやま)、宵々山(よいよいやま)、宵山(よいやま)。山鉾には幾十もの提灯が灯され、祇園囃子が鳴り響き、四条通界隈は数十万の人並みで賑わいます。 山鉾町の家々で、代々伝わる秘蔵の屏風や書画を公開する、屏風祭も見逃せない行事。十六日の深夜、台座に縛り付けた観音像を担ぎ、南観音山(山鉾町)を練り歩くあばれ観音も、密かな人気を呼んでいる神事の一つです。

そして迎えた十七日、三十二基の山鉾が四条通、河原町通、御池通を巡行し、祇園祭は最高潮に達します。

二十四日、真夏の太陽が照りつける京都市役所前から八坂神社までの道のりを、十余りの花傘をはじめ、花街のきれいどころ、獅子舞、鷺舞、子供御輿、祇園囃子など総勢千人の花笠巡行(後の祭)が通り過ぎると、祭はそろそろ仕舞い仕度に。還幸祭を終え、神輿を鴨川の水で洗い、一切の行事をつつがなく終えたことを神に告げると、三十一日、八坂神社内の疫神社で厄除けを祈願して、祇園祭は幕を下ろします。

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名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は奈良、大峯山を訪ねました。

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風そよぐ 
ならの小川の 
夕暮は
みそぎぞ夏の 
しるしなりける

従二位家隆
風に楢の葉がそよいでいるならの小川の夕暮れは、とても涼しく秋のような感じだが、川のほとりでみそぎが行われているのが、まだわずかに夏であることのしるしだよ。

ならの小川は、奈良ではなく、上賀茂神社を流れる御手洗(みたらし)川のこと。かつて境内に置かれた奈良社という社の前を流れ、川のまわりに楢の葉が茂っていたことから、ならの小川と呼ばれていました。洛北、賀茂川の東に鎮座する上賀茂神社は、正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社といい、下鴨神社(賀茂御祖(かもみおや))とともに平安京以前からの長い歴史を誇り、どちらも世界文化遺産に登録されています。

歌に詠まれたみそぎは、「夏越(なご)しの祓(はらえ)」や「水無月祓(みなづきばらえ)」と呼ばれる上賀茂神社の行事。川の水で身を浄め、罪や穢れを祓い落とし、無病息災を祈るもので、旧暦の夏の終わりにあたる六月晦日に行われていました。「夏越しの祓」は今日にも受け継がれ、上賀茂神社をはじめ、松尾大社、北野天満宮、車折(くるまざき)神社など、京都各地の神社で古式にのっとり、茅輪(ちのわ)くぐりや人形流しなどの神事が執り行われます。

この一首は屏風歌といわれる歌で、屏風に描かれた宮中の風物や行事を題材に詠まれたもの。初出典の『新勅撰集』には、藤原道家の女(むすめ)が後堀河天皇の女御(にょうご)として内裏に入るとき、婚礼道具として持参した屏風に書かれた歌と記されています。

作者の従二位家隆(じゅうにいいえたか)(藤原家隆)は、藤原定家の父、俊成に歌を学び、定家と同様後鳥羽院の寵愛を受け、『新古今和歌集』の撰者の一人に選ばれた人物。その歌風は、技巧を凝らした定家とは大きく異なり、平明でわかりやすいのが特徴です。対照的な歌を詠んだ家隆と定家ですが、二人は互いの歌才を認め、尊敬しあう間柄だったとか。そのような良きライバル関係が、二人を偉大な歌人に育て上げたのかもしれません。


小倉山荘 店主より

幸福とは幸福を探すことである 「ジュール・ルナール」

風薫る五月、長岡京に、小倉山荘の新たな歩みを印す「竹生の郷」が開店いたしました。これもひとえに、皆様方のご支援の賜と、この場をお借りして心から感謝を申し上げます。

「竹生の郷」は、ご縁ある方々にさらなる喜びと感動をお贈りする小倉山荘の感動発信拠点です。何年もの間考えをめぐらせ、一同が全力を尽くすことにより開店に至りました。

長屋門をくぐると、小倉百人一首に縁の深い水無瀬絵図を再現した紅葉と桜の庭園、歌碑、小倉山荘の心の指針「唯足知吉」の銘を刻んだつくばい、新しい試みのカフェなどが広がります。

今日、訪れた庭園は、昨夜の慈雨で木々や芝生が生き生きと映え、石畳に響く足音も心地よく、新緑の息吹を全身に浴びて、なんとも幸せな気分に浸ることができました。

人それぞれに「幸福」の在り方は異なるでしょうが、それは心構え一つでいかようにもなるものと、あらためて心に銘した一時でした。

報恩感謝 主人 山本雄吉