読み物

洗心言

2007年 初夏の号


伝統文様

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伝統文様【源氏車】
平安貴族の乗り物であった御所車の車輪を図案化した源氏車。『源氏物語』の世界観を象徴する文様として、その名が付けられました。

こころを彩る千年のことば

初夏の夕刻に川辺を訪れると、ふわふわと踊る虫たちに出逢うことができます。その宴の主人公は、かげろう。まるで生きる歓びを確かめるように、優しく舞い飛ぶかげろうですが、その命はとても短く、儚いものです。
珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「かげろう」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「水のなかで長く過ごした後の、
一日だけのいのち」

かげろうは、細長いからだに大きな羽根と眼を持ち、見た目はトンボのような虫。日本はもちろん、世界各国に生息する昆虫です。幼虫期を水のなかの石の裏などで過ごし、そのあいだに脱皮を十回以上繰り返したあとで、ようやく羽化するのが特徴です。といってもこれで成虫になったのではなく、森や林でもう一度脱皮して、晴れて「大人」になります。

しかし、これだけ時間をかけて成長したのに、丘へ上がったかげろうの命はほんの束の間です。種類によって差があるものの、かげろうの成虫が生きているのはせいぜい一日。そのため、かげろうの学名には「一日だけの存在」という意味のギリシア語があてられ、ドイツ語でも「一日飛虫」といいます。
そして日本でも、かげろうは、儚いものの代表として知られてきました。

「かげろうに、
亡き大君の追憶を重ねた薫」

かげろうの名の由来は、「陽炎」といわれています。それはゆらゆらと揺らめき、跡形もなく消え去る陽炎が、かげろうの束の間の命、あるいは頼りなげに飛ぶ姿に重なることに因みます。そして平安時代に詠まれた多くの歌に、かげろうは儚いもののたとえとして登場します。

たとえば『源氏物語』のなかの一首。
ありと見て 手にはとられず 見ればまた ゆくへも知らず 消えしかげろふ
これは光源氏の子である薫が、早世した大君をかげろうの姿に重ねて詠んだ歌で、大意は「目の前にいてもどうすることもできず、つぎには行方も知らずに消え失せていることだろう」。

なお、当時はかげろうとトンボが混同されており、この歌に詠まれたかげろうはトンボを指すという説もあります。ちなみに、かげろうを漢字で書くと「蜉蝣」、トンボは「蜻蛉」。平安時代には、そのどちらもかげろうと読まれていました。

「水質の変化を身を
持って知らせる環境の番人」

いま、日本各地の水辺に棲むかげろうは、「環境の番人」の役割を果たしています。水質汚染など、環境の変化を知らせる指標生物に選ばれているのです。つまり、かげろうが棲めなくなると、その水は汚れているということ。

平安人がこよなき思いを寄せた儚い命を守るためには、自然の営みを美しく、健やかに保つことが何よりも大切なようです。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 東寺」

青空に向かって、すくっとそびえる五重塔。
その壮麗なたたずまいは、古都、京都を代表する景観として世界の人々からの賞賛を集め続けてきました。
千二百年の歴史遺産をめぐる「平安京今昔めぐり」。
今回は空海の寺としても名高い「東寺」をご紹介します。

東寺(とうじ)(教王護国寺(きょうおうごこくじ))の誕生は、平安京遷都後間もない延暦(えんりゃく)十五年(七九六)のこと。平安京の表玄関である羅城門(らじょうもん)の東西に、王城鎮護の寺院として西寺(さいじ)とともに建立されました。ところが西寺は鎌倉時代に焼失し、その跡地は現在、児童公園になっています。

東寺は弘法大師、空海の寺としても有名ですが、そのゆかりは弘仁(こうにん)十四年(八二三)に、嵯峨天皇から寺を賜われたことにはじまります。以後、東寺は真言密教(しんごんみっきょう)の根本道場となり、弘法大師信仰が高まった鎌倉時代には、皇族をはじめ公家、武家、さらには庶民までの幅広い支持を得るに至りました。

そしていま、東寺は東寺真言宗の総本山として栄えるとともに、古都、京都を代表する史跡として世界文化遺産に登録され、国内外から数多くの人々が訪れる観光名所になっています。広大な境内には国宝の金堂(こんどう)、五重塔、大師堂(だいしどう)、蓮華門(れんげもん)が甍(いらか)を連ね、特に高さ五十四・八メートルと、木造塔では日本一のスケールを誇る五重塔は京都のシンボル的存在。ちなみに五重塔は過去に四度、災禍により消失。現在の塔は五代目で、江戸時代に徳川家光の寄進により建てられたものと伝わります。

真言密教の根本道場であった東寺は、密教美術の宝庫でもあり、寺には仏像や仏画、工芸品など数多くの国宝、重要文化財が所蔵されています。なかでも五大菩薩、五大明王、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四天王の二十一体の仏像からなる講堂の立体曼陀羅は圧巻の一言です。

さて、東寺では毎月二十一日の朝早くから、「弘法さん」と呼ばれる縁日が開かれます。これは空海の命日に因んで江戸時代から行われているもので、境内とそのまわりには約千軒もの露店が並び、家具や食器、着物や日用雑貨など、その品揃えの多さは一日では見つくせないほど。東寺の醍醐味を堪能した後は、ガラクタのなかから掘り出し物を探したり、店主との値引き交渉を楽しむのもまた、一興です。

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百人一首 折々の歌

歌を通して季節をたどる「百人一首 折々の歌」。
今回は夏の趣を詠んだ清原深養父の名歌をご紹介します。

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夏の夜は 
まだ宵ながら 
明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ

清原深養父
夏の夜は短いので、まだ宵のうちだと思っているうちに もう明けてしまったが、月は西の山に隠れるひまもなく、 いったい雲のどの辺に宿っているのであろうか。

この歌は元来『古今和歌集』に収められた一首で、歌が詠まれた背景を記した詞書(ことばがき)には「月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる」とあります。つまり、作者の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は、実際に月を愛でようと夏の夜空を一晩中眺めていたのです。なんとも風流なことです。

ところが夏の夜は春、秋、冬とちがい、とりわけ短いもの。しかも歌に詠まれたのは「有明の月」と呼ばれ、その月の下旬ごろ、夜がかなり更けてから東の空に出る月。「まだか、まだか」と気を揉みながら待ちつづけ、やっと姿を現わしたと思ったら、すぐに朝の光に消えてしまった月。この歌には、そんな夏の短夜(みじかよ)の月を惜しむ気持ちが機知を凝らして表わされています。

月を愛でるために夜を徹したり、月への愛惜の心情を和歌に仕立てたり、平安人が抱いた月への思いは、現代人のそれとは比べ物にならないほど強かったことを如実に表わした一首といえるでしょう。

清原深養父は、平安時代の中ごろを生きた人物。官吏としては不遇でしたが、歌人として名を馳せ、四十一もの歌が勅撰集(ちょくせんしゅう)に採られています。

清原家は文才に恵まれた家系だったようで、『日本書紀』の編者である舎人(とねり)親王は深養父の先祖。その才能は子孫にも受け継がれ、第四十二番の作者である清原元輔は孫、第六十二番の作者であり『枕草子』を記した清少納言はひ孫にあたります。

余談ですが、『枕草子』の冒頭で、彼女は趣あるものとして「夏は夜。月のころはさらなり(夏は夜がいい、月の出る夜はなおさらいい)」と記しています。血は争えないものですね。


小倉山荘 店主より

相手の心に届く手紙

こんにち、コミュニケーションの主役は電話や電子メールなど、すぐにつながる通信手段にとって変わられ、手紙は儀礼的な挨拶や特別な用件にしか利用されなくなりました。そんな今だからこそ、突然届いた何気ない便りは驚きとあいまり、とても嬉しく感じられます。

ところがいざ、誰かに手紙を書こうと思うと難しいものです。ひな形を真似ても、心が届く手紙にはなりません。大切なのは、手紙を書きたいと感じた気持ちを素直に相手に伝えることです。受け取ってうれしいのは、そんな「心あふれる手紙」です。

当然、出した側も返事が来たら心が浮き立つことでしょう。しかし手紙は、決して返事を求めて書くものではありません。手紙とは、「私はここにいる」という心の叫びなのです。

何の見返りも望まず、相手にただ与える。そんな手紙を書きたいものです。

報恩感謝 主人 山本雄吉