洗心言
2009年 初秋の号
有職のかたち
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- 有職のかたち【業平菱】
- 歌人としても名高い平安貴族の在原業平が好んで用いたといわれ、絵画に描かれた業平の姿にその柄を見つけることができます。
時を超える言の葉
日本の歴史を振り返ると、それぞれの時代に、それぞれの分野で偉業をなした先人たちの至言に出会うことができます。それらは、数百年、千年の時を経たいまも私たちの心に響き、熱く、深く染みわたります。
「時を超える言の葉」。今回は、禅宗のひとつである曹洞宗の開祖、道元の珠玉の言の葉をご紹介します。
「放てば手にみてり」道元
道元(どうげん)は鎌倉初期を生きた人。裕福な貴族の家庭に生まれ、何不自由のない幼少時代を送りますが、十三歳で悟りを求めて比叡山に登り、翌年に出家します。一説に、両親との死別がきっかけだったといわれています。ところが当時の比叡山は堕落を極め、僧たちは皆、権力や名声を得ようと躍起になっていました。また、修行のあり方も道元の心を満足させるものではありませんでした。
失望した道元は、各地を放浪した末に二十四歳で宋へ留学。しかし、そこでも満足のゆく修行ができず、帰国を考えていた矢先に如浄(にょじょう)という名僧と出逢い、念願の弟子入りを果たします。そして、道元は厳しい修行をつづけるうちに「只管打坐(しかんたざ)」という行法を伝授されました。
「只管」は余念を交えないという意味で、余念とはたとえば、修行によって功徳や利益を得ようと考えること。「打坐」は座禅を意味します。
「只管打坐」とはすなわち何も考えず、何も求めず、ただひたすらに座禅に打ち込むということです。そして、「只管打坐」によって道元が到達した心の状態が、冒頭にご紹介した「放てば手にみてり」。大意は「掌に握りしめている何かを手放すと、新しい何かが手のなかに自然と満ちてくる」。たいへん深遠な意味を含んだ言の葉ですが、それは欲や執着から開放されて自由になったときにはじめて、人は新しい境地に達することができるという意味にも解釈できます。
私たちはときとして、自分がいったい何を握っているのか、それさえも分からなくなってしまうことがあります。そんなときは思いきって掌を開いてみる。すると、あれもこれもと欲張り、さらにはそれらを後生大事に握りつづけるあまり、自分を見失っていたことに気づくはずです。
しかしそうは言っても、一度手にしたものはなかなか手放せないものです。ならば道元のように、座禅からはじめてみるのはいかがでしょうか。何も考えず、何も求めず、ただひたすらに。そうすれば欲も、執着も、ひとりでに手放されていくかもしれません。
平安京 今昔めぐり
「平安京今昔めぐり
誠心院」
さまざまな商店や飲食店、映画館などが軒を連ね、いつも多くの人で賑わう京都随一の繁華街、新京極通。
その一角にひっそりと佇む誠心院は、『小倉百人一首』の第五十六番の作者として名高いある人物を初代住職とする寺院です。
「平安時代を代表する
女流歌人、
和泉式部ゆかりの寺」
和泉式部(いずみしきぶ)は歌人としてはもちろん、恋多き女性としても名を馳せ、「浮かれ女」と評されたほどの人物。最初に橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚して娘(『小倉百人一首』第六十番の作者、小式部内侍(こしきぶのないし))をもうけますが、冷泉(れいぜい)天皇の皇子である為尊(ためたか)親王と恋に落ち、結婚生活は破綻。しかし親王に先立たれ、つぎにその弟である敦道(あつみち)親王とロマンスが芽生えるものの、ふたたび死別。その後、彼女は一条天皇の中宮である彰子(しょうし)に女房として仕えるうちに藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚し、夫の任地である丹後国へ下がります。
前置きが長くなりましたが、誠心院(せいしんいん)の歴史は万寿(まんじゅ)四年(一〇二七)に、関白藤原道長(ふじわらのみちなが)が娘の彰子(上東門院(じょうとうもんいん))に仕えていた式部のために、庵を与えたことにはじまります。一説に、その二年前に娘の小式部内侍が二十代半ばで病死。それによって世のはかなさを感じた式部はある寺にこもりきりとなり、四六時中念仏を唱えていたといわれています。誠心院は最初、鴨川の西側にありましたが、鎌倉時代に現在の京都御苑の西側に移築され、さらに安土桃山時代の天正(てんしょう)年間に現在の位置に移されました。
ところで、誠心院のある新京極通の一筋西は寺町通といい、その名は豊臣秀吉によって洛中に散在する寺院が、通り沿いに集められたことにちなみます。誠心院も秀吉の命令で移され、当時の寺域は現在より大きなものでした。ところが幕末に大火に遭い、しかも明治期に新京極通が新設されて境内が二分されてしまいます。これにより寺はさびれますが、その後次第に誠心院は復興を遂げます。
周囲を商店やビルに囲まれた境内の一角には、正和(しょうわ)二年(一三一三)に改修建立されたという石塔が鎮座し、これは式部の墓と伝わるもの。その奔放な生き方からか式部の人気は二十一世紀の今も根強く、寺には日本全国から多くの参拝客が訪れるのだそうです。
百人一首 永久の恋歌
平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、西行法師の名歌をご紹介します。
なげけとて
月やはものを
思はする
かこち顔なる わが涙かな
- 西行法師
- 嘆けといって、月が私に物思いをさせるのだろうか。そうではなく、本当は恋のためなのだが、まるで月のせいだというように恨めしそうな様子でこぼれる涙よ。
平安時代の末期に世捨て人のように日本各地をめぐり歩き、自然への思いを三十一文字に託した西行法師(さいぎょうほうし)。なかでも桜と月をこよなく愛し、それらを題材とした名歌を数多く残しました。
第八十六番に選ばれたこの一首は、もともと『千載集(せんざいしゅう)』という歌集に採られたもので、歌が詠まれた背景を解説した詞書には「月前恋といへる心をよめる」と記されています。孤独な旅の途中で出会った月。いくら思いを募らせても、けっして手に触れることのできないその美しい姿を目の当たりにしたとき、西行の心には会うことが許されない人や、手の届かない人への思いがあふれ出たのでしょうか。この秋、闇を照らす月明かりを眺めながら、千年の昔に生きた歌人の心にそっと思いを寄せてみるのも一興です。
祖先が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)という由緒ある武士の家系に生まれた西行法師は、鳥羽(とば)上皇に仕え、十七歳のときに御所の北側を警護する北面(ほくめん)の武士に抜擢されます。それは一般の武士よりも官位が高いいわゆるエリート部隊で、同僚には平清盛がいたといわれています。武芸に優れ、歌才に秀で、しかも容姿端麗であった西行の名は広く知られ、まさに将来を嘱望された身でした。
ところが、西行は突然出家してしまいます。それも妻子を残して。それは若干二十三歳のときの出来事でした。その理由には諸説あり、親友の死に無常を感じたため、政争にあけくれる世の中に嫌気がさしたため、ある女性との恋をあきらめるため、などの説が伝えられています。ある女性とは鳥羽上皇の中宮であった待賢門院(たいけんもんいん)といわれ、この歌に託されたのはもしかすると、彼女への思いだったのかもしれませんね。
小倉山荘 店主より
与えても減らず、与えられた者は豊かになる
アメリカのあるデパートの広告です。
元手がいらず、利益は莫大。
与えても減らず、与えられた者は豊かになる。
一瞬のあいだ見せれば、その記憶は永久に続く。
家庭に幸福を、商売に善意をもたらす。
疲れた人にとっては休養、失意の人にとっては光明、
悲しむ人にとっては太陽、悩める人にとっては自然の解毒剤。
買うことも、強要することも、盗むこともできない。
無償で与えて初めて値打ちが出る。
クリスマスセールで疲れ切った店員のうち、これをお見せしない者がございました節には、恐れ入りますが、お客様の分をお見せ頂きたいと存じます。笑顔を使い切った人間ほど、笑顔を必要としている者は他にはいませんから・・・。
笑顔は人の心を開き、元気づけてくれます。例え短い時間でも憂いを忘れさせてくれます。いつも、笑顔の力を大切にしたいと思います。
報恩感謝 主人 山本雄吉