読み物

洗心言

2009年 晩秋・初冬の号


有職のかたち

image

有職のかたち【唐草】
植物の蔓や葉が絡みあった様子を表した文様。その起源は古代ギリシャといわれ、日本にはシルクロードを経て奈良時代に伝わりました。

時を超える言の葉

日本の歴史を振り返ると、それぞれの時代に、それぞれの分野で偉業をなした先人たちの至言に出会うことができます。それらは、数百年、千年の時を経たいまも私たちの心に響き、熱く、深く染みわたります。
「時を超える言の葉」。今回は、『小倉百人一首』の撰者である、藤原定家の珠玉の言の葉をご紹介します。

「紅旗征戎
(こうきせいじゅう)
吾(わ)が事に
非(あら)ず」
藤原定家

時は治承(じしょう)四年(一一八〇)。朝廷の実権を握り、世の栄華をほしいままにしていた平氏に対し、武家の源氏が兵を挙げます。治承・寿永(じゅえい)の乱、いわゆる「源平合戦」の勃発です。各地でくり広げられた六年におよぶ戦いの末、壇ノ浦の地で平氏はついに滅亡。これにより天皇、公家の政治から武家を中心とした社会へ、世の中は激しく移り変わります。

この乱が起こったとき、藤原定家(ふじわらのさだいえ(ていか))は十九歳。幼いころから父、俊成(としなり(しゅんぜい))に手ほどきを受け、西行法師(さいぎょうほうし)らと親交を深めるなかで磨いてきた歌才を、本格的に高めようとしていた最中でした。そして青年定家は、このころより晩年まで五十六年の長きにわたって日々の出来事を綴ります。日記文学の傑作として名高い『明月記(めいげつき)』のはじまりです。

冒頭にご紹介したのは、その『明月記』に遺された定家の言の葉。大意は「人々のあいだでは戦の話題でもちきりのようだが、私はそんなことは気にもしないし、記録に書きとどめようとも思わない。紅旗(朝廷の旗)を掲げて敵を倒すといったことなど、自分とはまったく関係のないことだ。私には、やりたいことがあるのだから」。
混乱を極める世の中に、あえて背を向けた定家。その姿勢からは若干十九歳でありながら、自らの道を究めようとしていた青年の強い意志がうかがえます。公家と武家との戦いは、公家であった定家にとって自分の将来にかかわる一大事であったはずです。しかし定家は雑念に気を取られることなく、ただひたすらに和歌の修行に打ち込みます。

その努力は数多くの秀歌として実を結び、『源氏物語』をはじめとする古典の素養に富み、確かな技巧に裏打ちされた定家の歌風は、それまで貴族のたしなみと考えられていた和歌を芸術の域にまで高めました。また、歌に深い心を求め、華やかさのなかにも寂しさを漂わせた「有心(うしん)」は、後世に「侘(わ)び寂(さ)び」として受け継がれていきます。そして当代一の歌人となった定家は、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』を編さんするに至りました。
自らの信念に忠実なあまり、けっして平坦ではなかった定家の人生。しかし流されることなく、媚びることなく、歌の道に一途に生きた定家の業績は、悠久の時を超えて燦然と光を放ち続けています。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 
神護寺」

京都市の北西部につらなる愛宕(あたご)山系に 「三尾(さんび)」と呼ばれる市内有数の紅葉の見どころがあります。
栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)、槙尾(まきのを)の西明寺(さいみょうじ)とともに、 悠久の歴史を受け継ぎながら 山中にひっそりと鎮座する「三尾」のひとつが高雄(たかお)の神護寺(じんごじ)です。

「空海の尽力によって
栄えた、
紅葉燃える名刹」

神護寺の歴史をさかのぼると、ひとりの平安人にたどり着きます。その名は和気清麻呂(わけのきよまろ)。平安遷都の立役者として名高い清麻呂は、大阪の河内に神願寺(じんがんじ)、そして現在の寺がある場所に高雄山寺(たかおさんじ)を建立。この二つの寺が合併して、天長(てんちょう)元年(八二四)に神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)(神護寺)が誕生しました。

前身の高雄山寺は天台宗の最澄、真言宗の空海という密教の二大始祖と深いゆかりがあった寺。特に空海は十数年にわたって寺にとどまり、神護寺を東寺や金剛峯寺と並ぶ真言密教の根本道場として栄えさせます。ところが、平安時代の終わりごろに寺はさびれ、『平家物語』に「住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり」とその衰退ぶりが描かれたほどでした。

その後、文覚(もんがく)という僧とその弟子たちが苦難の末に寺を建て直すものの、天文(てんぶん)年中(一五三二~五五)の兵火などにより建物のほとんどが焼失。現在、寺域に残る楼門や毘沙門堂などは江戸時代初期に、金堂や多宝塔は昭和に入って再建されたものです。とはいえ、寺には貴重な文化財が多数受け継がれ、本尊の薬師如来立像や空海が寺にいたころに描かれたという高雄曼荼羅、源頼朝像と伝わる肖像画、三人の文人が作成にかかわったことから「三絶(さんぜつ)の鐘」の名で知られる平安時代作の梵鐘などが国宝に指定されています。

さて、神護寺は京都市内でもっとも早く紅葉を楽しめるところ。毎年十一月の声を聞くと、清滝川にかかる高雄橋からつづく参道のまわり、そして広大な境内ではタカオカエデと呼ばれるイロハモミジが色づきはじめ、月の中ごろには全山が燃えるような錦に彩られます。同じころには高山寺と西明寺の紅葉も見ごろを迎えるので、凛とした空気につつまれた清流沿いの散策道をたどり、ゆっくり一日をかけて季節の趣きを満喫するのも一興です。

image

三百数十段の急な石段の終わりにある楼門。
持国天と増長天が訪れた人々を出迎える


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、待賢門院堀川の名歌をご紹介します。

image

長からむ 
心も知らず 
黒髪の
みだれて今朝は 
ものをこそ思へ

待賢門院堀川
あなたの愛情が長続きするかどうか、 わたしにはわかりません。長い黒髪が乱れているように、心も千々に乱れて、 あなたにお逢いしたのちの今朝、物思いに沈んでいるのですよ。

平安女性の美しさの象徴であり、女性のいのちと言われた豊かな黒髪にからめ、揺れ動く女心を巧みに表わした第八十番。後朝(きぬぎぬ)の歌であるこの一首は、契りを交わした男性から翌朝贈られてきた歌への、お返しとして詠まれたものといわれています。

ともに過ごしているあいだは、心は喜びで満ちあふれているのに、朝がきて離れ離れになったとたんに訪れた一抹の不安。もしや、相手が突然のように心変わりしてしまわないだろうか・・・。愛するがゆえの疑いや心配をぬぐい去ろうとすればするほど、狂おしいばかりに心が思い乱れてしまう。そんな気持ちを乱れた長い黒髪にたとえた、なんともなまめかしい恋の歌です。

待賢門院堀川(たいけんもんいんほりかわ)は平安時代の終わりころの人で、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)に女房として仕えていました。主の璋子は白河上皇に養女として迎え入れられ、鳥羽天皇の中宮となった人物。第七十七番の作者である崇徳院(すとくいん)をはじめ、七人の子どもをもうけ、朝廷でたいへんな権勢を誇ります。

ところが白河上皇の死後は不遇に過ごし、さらに崇徳院は白河上皇とのあいだに生まれた子どもであるという風説に心が傷つき、璋子は出家を決意。女房であった堀川も黒髪を切り、主と道をともにします。その出家には、璋子に心を寄せていた西行法師が力添えしたといわれています。

ところで、この歌は題詠歌(だいえいか)、すなわち歌会の題にあわせて詠まれたものという説もあります。しかし後朝の歌であろうと、題詠歌であろうと、自らの経験をふまえた歌であることには変わりはないでしょう。情熱的な恋の行方がどうなったのか、気になるところですね。


小倉山荘 店主より

飢えを癒すだけでなく、
心を満たす恵み

十一月二十三日は勤労感謝の日ですが、この日はかつて、新嘗祭が行なわれる祝日でした。新嘗祭とは本来宮中の祭祀で、その年に収穫した五穀の新穀を供え、一年の豊作の感謝を神に捧げる稲作儀礼のひとつです。かつては新嘗祭が過ぎると、時節は年末に入るといわれていました。

少し気の早い話ですが、正月に家に福をもたらすためにやってくる歳神の「とし」は、元来稲の実りを意味する言葉であり、年初にその年の豊作を祈願したのが正月のはじまりとされています。

このように、先人は稲作を通して一年のはじめと終わりを知り、さらには季節の移り変わりを感じることで、自然に対する豊かな感性を育んできました。その一方、日本人が勤勉で忍耐強いのは多忙を極める稲作に、精魂込めて取り組んできたからといわれています。

飢えを癒すだけでなく、私たちの心に寄り添ってきた稲。その恵みに、改めて感謝を捧げたい晩秋です。

報恩感謝 主人 山本雄吉