読み物

洗心言

2010年 初秋の号


自然の文様

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自然の文様【七曜】
北斗七星を表わした七曜。宇宙の最高神、天帝と崇められた「北辰(北極星)」のまわりに浮かぶ北斗七星も、北辰の一部として尊ばれました。

森羅万象 和のこころ

豊かな自然とはっきりとした四季に恵まれた日本。この国に生まれ、生きることで、日本人は古来より独特の自然観を培い、その感性は「環境の時代」といわれる今、未来を豊かに生きるための知恵として世界的に注目されています。
自然に向けられた先人の眼差しを、季節にあわせてご紹介する「森羅万象 和のこころ」。
今回は、秋の実りを題材に、お話しを進めてまいります。

「五穀豊穣」

季節は早や、秋を迎えました。読書や芸術とならび、秋といえば思い出すのがお祭りです。ワッショイ、ワッショイと、町内の通りをにぎにぎしく練り歩くお神輿、神社の境内にずらりと並ぶ、色とりどりの夜店。これからしばらくのあいだ、週末ともなると、日本の各地で昔ながらの風景が繰り広げられます。
老若男女が楽しめる秋祭りですが、もちろん、それは娯楽のためだけにあるのではありません。そもそも秋祭りは、一年にわたり、丹精こめて育んできた作物が実りを結ぶ季節に、収穫の喜びを共同体のみんなで分かちあい、五穀豊穣(ごこくほうじょう)への感謝を田の神に捧げた神事からはじまったものといわれています。

五穀豊穣とは、穀物の豊かな実りを意味することば。五穀は古代に「いつつのたなつもの」や「いつくさのたなつもの」と呼ばれた、五種類の穀物のことです。日本最古の歴史書である『古事記』には、稲、麦、粟、大豆、小豆の五つが挙げられ、同じく奈良時代に編さんされた『日本書紀』には、稲、麦、粟、稗(ひえ)、豆が五穀として記されています。
いずれも日本人の暮らしを支えてきた穀物ばかりですが、なかでも特別に馴染み深いのが稲。毎年十月十七日に執り行われる、伊勢神宮の祭礼のなかでも最も大切とされる神嘗祭(かんなめさい)で、御料米(ごりょうまい)の稲穂が奉納されるのを、ご存じの方も多いことでしょう。

日本人にとっての稲。それは、単に飢えを満たすだけの存在には終わりません。四季の移り変わり、すなわち自然条件の変化と密接に関係する稲作を通して、日本人は自然とともに生きるための知恵を育んできました。また、稲作には清浄な水の確保をはじめ、周囲の自然を良好に保つことが欠かせず、稲を育むことは環境を保全することでもあったのです。そして、稲作はたいへんな労力がかかる仕事であり、日本人の勤勉さは稲作を通して培われてきたといわれています。

遥か太古の昔より、日本人を生かしつづけてきた、稲をはじめとする五穀。その豊穣への感謝、秋祭りにこめられた意味を、いまふたたび噛みしめたいものです。


千二百年の言い伝え

ぐっすり眠り込んでしまい、前後不覚におちいったり、知ったかぶりをして見てきたような嘘をつくことを「白河夜船」といいます。
これは平安時代に華麗に栄えた、京都のある地名に由来する故事成語です。

「白河夜船」

白河(しらかわ)は、現在平安神宮や動物園、美術館などが建ち並ぶ左京区の岡崎公園一帯のこと。白川通や北白川などの地名が、昔の名残を留めています。

平安京の洛外に位置した白河はもともと、うら寂しい葬送地でした。ところが藤原良房(ふじわらのよしふさ)が別荘を営むと、白河は貴族たちの別業地に様変わり。良房の別荘はのちに白河天皇に献上され、天皇が退位後にも権勢をふるったことから、白河は院政の舞台となります。また、白河天皇は自らの権力を示すように法勝寺(ほっしょうじ)という巨大寺院を建立し、その境内には高さ八十メートルもの九重塔がそびえていたといいます。

このように白河は、京都のなかでも有名なところでした。しかし河がつくことから、白河を川と勘違いする人が多くいたようです。「白河夜船(しらかわよふね)」誕生のきっかけをつくった人も、そのうちの一人。その人は、京都へ行ったことがないのに「行った」と見栄を張っていました。あるとき知人と京都の話しをしていて、では白河には行ったのかと聞かれ、てっきり川のことだと思っていたその人は、船の中で眠っていたのでよく覚えていないと答えてしまいます。そこで、眠りこけて何も気づかないことを「白河夜船」というようになったのだそうです。ところで、かつて「白河夜船」は、知ったかぶりをすることの意味にも使われていたようです。話しの筋からすると、こちらの意味のほうがふさわしいような気がしないでもありません。

ご存じの方も多いと思いますが、京都には白川という川も存在します。現在の流路は昔と少し違っていますが、比叡山と如意ヶ嶽(にょいがたけ)(大文字山)の間に源を発して、銀閣寺のそばを通り過ぎてかつての白河あたりで琵琶湖疎水に注ぎ、平安神宮の南側で疎水と別れて祇園を流れ、最後に鴨川に合流します。その祇園、白川のほとりで十一月八日に行なわれるのが「かにかくに祭」。これは祇園をこよなく愛した歌人、吉井勇をしのぶ行事で、この祭りが終わると京都もいよいよ晩秋です。

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白川のほとりにたたずむ
吉井勇の歌碑。
「かにかくに祭」では
芸妓や舞妓が白い菊をそなえる


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、謙徳公の名歌をご紹介します。

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あはれとも 
いふべき人は 
思ほえで
身のいたづらに 
なりぬべきかな

謙徳公
あなたに見捨てられてしまったこの私を あわれと思ってくれる人もいそうにないので、私はこのままむなしく死んでしまうにちがいない。

女性に捨てられた男の傷心ぶりが、ありのままにつづられた謙徳公(けんとくこう)の第四十五番。『拾遺集(しゅういしゅう)』の詞書によると、これは愛し合っていた女性から一方的に別れ話しを切り出されたときに詠まれた歌とあります。

謙徳公とは藤原伊尹(ふじわらのこれただ)のこと。伊尹といえば家柄もよく、のちに摂政太政大臣をつとめて権勢をふるい、「世の中は我が御心にかなはぬ事なく」と豪語したほどの人物。これは伊尹が若き日に詠んだ一首で、痛々しいほどの情感が漂う歌は、若き日の伊尹は恋に一途でたいへん純情な青年であったことを伺わせます。

一方、この歌は、相手の同情を引き出すためにわざと女々しく詠んだものともいわれ、それが事実なら、伊尹は純情というより、取り引きに長けた策士という印象を抱かせます。果たして、本心はどちらだったのか。いまでは知る由もありませんが、いずれにせよ相手の気を引こうと躍起になっている姿からは、そこはかとない哀愁が感じられます。

先にも述べたように、謙徳公は藤原伊尹の諡(おくりな)(死後に贈られた名前)。大貴族の跡継ぎとして生まれた伊尹はたいへんな美男子で、しかも和歌をはじめとする学才に恵まれていました。

また、たいそうな派手好きで、身の回りのあらゆるものに華美を求めたという伊尹には、つぎのような逸話が残されています。父、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が亡くなったとき、葬式を簡略にせよという遺言に背いて、仰々しい葬儀を執り行いました。それが亡父の怒りを買い、伊尹は早世したのだと。享年四十九。いまより平均寿命が短い平安時代でも短命でした。世間の人々は、伊尹は家柄も、容貌も、学才も、すべてに恵まれていたが、寿命だけはそうではなかったと口々に噂をしたそうです


小倉山荘 店主より

おかげさま、お互いさま

お互いに助け合い、分かち合う、いわゆる相互扶助の精神は一説に、稲作文化から生まれたものといわれています。 近代化される前の米づくりは、今よりも遥かに大きな労力を必要とし、一農家だけでこなせるものではありませんでした。そこで、農村の人たちが互いに助け合いながら田植えや稲刈りを行い、そこから「おかげさま」や「お互いさま」という言葉が自然発生的に生まれたのです。それは、日常生活に潤いを与えてくれる地域結集の一場面ともいえます。そして、相互扶助の精神は、日本人の美徳として今日まで大切に受け継がれてきたのです。

数千年にわたって連綿と続けられてきた米づくり。「瑞穂の国」といわれるように、稲作は食糧としてだけでなく、宗教や文化、国民性にまで大きく影響を及ぼしてきたのです。

報恩感謝 主人 山本雄吉