洗心言
2010年 晩秋・初冬の号
自然の文様
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- 自然の文様【紅葉】
- 花でもないのに赤や黄に、鮮やかに色づく紅葉。かつて、日本人は山野を錦に染めるその彩りに、秋が深まり、一年が終わりに近づいていることを知りました。
森羅万象 和のこころ
豊かな自然とはっきりとした四季に恵まれた日本。この国に生まれ、生きることで、日本人は古来より独特の自然観を培い、その感性は「環境の時代」といわれる今、未来を豊かに生きるための知恵として世界的に注目されています。
自然に向けられた先人の眼差しを、季節にあわせてご紹介する「森羅万象 和のこころ」。
今回は、食べることを題材に、お話しを進めてまいります。
「身土不二」
「食育」という言葉を、ご存じの方も多いことでしょう。食育とは、未来を生きる子ども一人ひとりが日本固有の食文化を受け継ぎつつ、すこやかで豊かな食生活を送ることができるよう、食に関するさまざまな知識と、自ら食を選択する力を身に付けさせるための教育のこと。平成十七年に食育基本法が成立すると、各地の幼稚園や学校で食育への取り組みがはじめられました。
ところで、食育への関心が高まったのは食を取り巻く環境が大きく変化し、食生活をめぐるさまざまな問題が指摘されはじめたここ十数年のことです。一見、新しい考え方のように思える食育ですが、実はその重要性は明治時代から唱えられていました。そして、食育と深い関係をもつのが「身土不二(しんどふじ)」という考えです。
身土不二とは、その土地でその季節にできるもの、つまり旬の食材をその場で食べることが健康によいという考えです。この考えの根底には、人間の身体は住んでいる土地の環境と密接に関係しているという思想があるとされています。また、作物を育てるにも、それぞれの土地の自然に適応したものを育てることが大切、という教えも含まれているようです。
ちなみに、身土不二はお隣りの韓国でも「シントブリ」と呼ばれ、日本よりも多くの人に親しまれているのだとか。
冬が近くなりました。これからは大根や白菜、ホウレンソウ、小松菜など多くの野菜が旬を迎えます。この冬は、せっかくなら近場で採れた野菜をいただいてみてはいかがでしょうか。近場で育てられた作物には、新鮮さがあふれていることはもちろん、つくった人の顔が見えるという安心感があります。
また、いわゆる「地産地消」は、輸送距離の短縮による環境への負担軽減と、食糧自給率の向上にもつながります。そしてなにより、近場で採れた作物をいただくことはその地域で生まれ、育まれてきた固有の食文化を受け継ぐことに役立ちます。
人は、自然の一部であり、人のいのちと暮らしは食べ物によって支えられる。未来を生きる子どもたちへ、かならず伝えていかなければならない、大切なことです。
千二百年の言い伝え
京都では毎月、ふたつの大きな縁日が開かれます。
ひとつは二十一日の弘法さん、もうひとつは二十五日の天神さん。
さまざまな露店がところせましと立ち並ぶふたつの縁日は、つねに多くの人で賑わいます。
「弘法さんが雨なら
天神さんは晴れ」
弘法さんは、弘法大師空海ゆかりの東寺の境内周辺で催される縁日。空海の入定日にちなみ、毎月二十一日に行なわれていた法要に集まる参拝者のために、茶屋が集まったのが起源とされています。それはおよそ七百年前のことで、そのほかの露店が出るようになるのは江戸時代のことだそうです。
かたや天神さんは、学問の神様として名高い菅原道真公を祀る、北野天満宮の縁日です。こちらは道真公の誕生日である六月二十五日と、命日である二月二十五日にちなんではじめられたもの。現在のような縁日になったのは戦後のことですが、歴史を遡ると、平清盛が北野天満宮の市で馬を買ったという記録があるそうです。
ところで、ふたつの縁日をめぐっては不思議な言い伝えがあります。それは「弘法さんが雨なら天神さんは晴れ」、もしくはその反対。なにやらほんとうのように聞こえる言い伝えですが、しかし統計記録などを見る限り、信ぴょう性はあまりないようです。では、なぜこのような言い伝えが生まれたのでしょうか。「京都の人のあいだでは、お寺の弘法さんと神社の天神さんは相性があまりよくないと思われていたため」など、いろいろな説があるようですが、はっきりとしたことはわかっていません。これと似たような言い伝えに「雲が愛宕(あたご)さんへ参ると雨、お稲荷さんに参ると晴れ」があります。愛宕さんは京都市の北西にある愛宕山、お稲荷さんは同じく南東に位置する伏見稲荷のことで、この言い伝えは科学的にうなずける話しなのだそうです。
さて、季節は足早に過ぎて、年の瀬もそう遠くないころとなりました。京都の師走の風物詩といえば、終(しま)い弘法と終い天神。お正月用の食材や花、しめ縄などを売る露店が並び、どちらもふだんよりもたくさんの人で賑わいます。年末の息抜きを兼ねて、縁日見物をするのも楽しそうです。
百人一首 永久の恋歌
平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、式子内親王の名歌をご紹介します。
玉の緒よ
絶えなば絶えね
ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
- 式子内親王
- 私の命よ、絶えるものならいっそ絶えてしまってほしい。このまま生き長らえていると、この秘めた恋心を こらえる気力が弱まってしまうといけないから。
「忍ぶ恋」を詠んだ、式子内親王(しょくしないしんのう)の第八十九番。忍ぶ恋とは、愛する人への想いを自分の胸の奥底に秘め、一生打ち明けることなく終わる恋のこと。それは年齢差や身分のちがいなどにより生まれ、平安時代にはそのような悲しい恋が美しいものと考えられていました。
『小倉百人一首』には、忍ぶ恋を題材とした歌がいくつも収められていますが、そのなかでもひときわ強い印象を放っているのがこの一首。命を捨ててまで、恋心を隠し通そうとする女性の激情が痛々しいほど伝わってくる、絶唱と呼ぶにふさわしい恋歌です。
ところでこの歌は、あらかじめ決められた題にしたがって即興で詠まれた題詠歌とされています。いわば想像の産物であるにもかかわらず、これほどまでの歌を詠みあげるところをみると、作者は実際に忍ぶ恋を経験していたのかもしれません。
式子内親王は後白河天皇の第三皇女で、平安時代の終わりごろを生きた人物。幼いころから斎院(さいいん)として賀茂神社に仕えますが、二十一歳のときに病気のために退きます。ようやく俗世に戻り、母親たちと暮らしはじめた内親王。しかし安堵するのもつかの間、内親王につぎつぎと不幸が襲います。妹、母親、そして同母弟がそれぞれ後を追うように亡くなってしまうのです。その後、叔母にあたる八条院のもとに身を寄せますが、八条院を呪い殺したという嫌疑をかけられ、ついには出家。そして生涯独身を通したまま、五十歳ほどの短い人生を終えます。
一説に、内親王は法然や藤原定家と恋愛関係にあったといわれています。定家とは十歳ほどの年齢差があったといいますから、それはまさに、忍ぶ恋だったのかもしれません。
小倉山荘 店主より
悔は凶より吉に赴く道なり
光陰矢の如しというように、今年も早や年末が近づいてまいりました。さまざまな思いが去来するころですが、「今年こそ」と年頭に定めた目標を達成できる見込みが薄くなり、あせりと悔いに心がふさがることも、この時節には多々あります。
そんなとき、物事を否定的に考えると心はさらにふさがり、事情は悪くなるばかりです。いずれにせよ目標を達成できないなら、発想を逆転してみるのも妙案です。
たとえば江戸時代の儒学者、中江藤樹の言葉のように、悔いを凶から吉へと導く道と考えてみる。そしてじっくりと悔いる、つまり過ちをひとつひとつ顧みる。すると、さまざまな反省点がみえてくるはずです。それはすぐに吉に結びつかなくても、来年には目標達成へと導いてくれるかもしれません。また、願いを難なく成し遂げるよりも壁にぶつかることで、人はさらなる知恵と忍耐心を培っていくものです。
晩秋の夜長、いち早く今年を振り返り、前向きに悔いる時間を過ごしてみるのも一興です。
報恩感謝 主人 山本雄吉