洗心言
2011年 盛夏の号
四季彩の紋
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- 四季彩の紋【沢瀉(おもだか)】
- 夏になると池などに自生する水草。可憐な花とは対照的に、葉の形が矢じりに似ていることから「勝ち草」とも呼ばれました。
春夏秋冬 楽然・楽趣
日本が世界に誇る伝統文化には、日本独特の自然観が息づいています。それは、ありのままの自然が織りなす趣きを楽しもうとした、この国ならではの美意識。
自然を畏れ敬うことで、素晴らしい文化を生み出した先人のこころをご紹介する「春夏秋冬 楽然・楽趣」。今回は住まいに息づく知恵についてのお話しです。
「自然の息遣いに
癒される暮らし」
まだエアコンがなかったころの日本家屋の、ちょうどいまごろの様子を思い浮かべてみてください。家中の障子や襖はすべて開け放たれ、チリリンと風鈴が揺れる縁側の向こうには庭がつづき、その先にはみずみずしい緑の山々が連なっている。このような光景を思い出した方も多いのではないでしょうか。
石でつくられ、窓が小さく、部屋と部屋とが壁で隔てられた西洋式の住まい。それと比べて、かつての日本の家にはそれぞれの部屋の間はもちろん、内と外との間にもはっきりとした境界がありませんでした。その差は、両者の自然に対する眼差しにあるといわれています。西洋人が自然と人間とを区分することに重きを置いていたのに対し、日本人は自然と密接に関わり、その恵みを享受することに重きを置いていたのです。
それは家のつくりだけにとどまらず、素材選びにもあてはまりました。木は石のような無機物とは異なり、空気中の湿度が高いと水分を吸収し、その反対であれば水分を放出する調湿機能を備えています。木材はいわば天然のエアコンであり、夏に湿度の高くなるアジアモンスーン地域の日本では、木の力に素直に従うことで心地よく、健やかな暮らしが育まれてきたのです。それは山の国に生まれ育ち、代々と木に親しみ、その特性を知り尽くしていた日本人ならではの技の賜物といえるでしょう。
先人は木を家づくりに使うため、里山を育てたり、森を維持することに力を注ぎ、その努力は自然環境と生態系を良好に保つことにつながりました。また、木材は再利用が比較的容易であることから、木の家を取り壊しても、同じ木を使ってふたたび生まれ変わらせることもできました。
省エネルギーと省資源が叫ばれる昨今。なかでもこの夏は特に、電気を使わずに過ごすことが求められています。昔ながらの日本の家には、電気にできるだけ頼らずに暮らすための知恵がありました。もちろん、それだけではありません。木は独特のぬくもりと趣きで、住む人の心をやさしく癒してきたのです。
自然との共生が急務となったいまだからこそ、昔ながらの日本の家の良さをじっくりと見直したいものです。
古都ごりやく散歩
最近、大河ドラマでふたたび脚光を浴びている豊臣秀吉。
大阪のイメージが強い人物ですが、伏見城を築いたり、町割を改編するなど、京都ともなにかと縁が深いことで知られています。
ここでは秀吉ゆかりのふたつのご利益スポットをご紹介します。
「太閤さんの願いを
伝える京の社」
ひとつめは東山七条の近くに位置する豊国(とよくに)神社。ここは秀吉の死から一年後の慶長(けいちょう)四年(一五九九)に、豊国(ほうこく)大明神(秀吉の神号)を祀って建立されたもの。伏見城から移築した唐門や、権現造(ごんげんづくり)の神殿などを擁した神社は天下人、秀吉の栄華を物語るにふさわしい豪壮で雄大なものでした。
ところがそれも束の間、新たな天下人、徳川家康によって神号は廃祀され、神社の大半は取り壊されてしまいます。その後、永きにわたり不遇の時代を過ごしますが、明治時代にめでたく再興され、今日では秀吉にあやかり立身出世開運の神様として人気のスポットに。国宝に指定された唐門の両脇をはじめ、境内の至るところに秀吉のシンボルだったひょうたん型の絵馬が吊るされ、その様子はまさに「千成ひょうたん」さながらです。ところで、神社のすぐ隣りには秀吉が建てた方広寺(ほうこうじ)があり、豊臣家滅亡のきっかけとなった「国家安康(こっかあんこう)」と刻まれた鐘が残されています。
ふたつめの秀吉ゆかりのご利益スポットは、二条城の西にある出世稲荷神社。その名のとおり、こちらも立身出世開運祈願の神社として知られるところ。その起源は「聚楽第(じゅらくだい)」と呼ばれた邸宅内に、秀吉みずからが祀った稲荷神にさかのぼります。なんでも秀吉は幼いころから稲荷神を篤く信仰していたそうで、天下統一もお稲荷さんのおかげと考えていたのだとか。後陽成(ごようぜい)天皇から「出世稲荷」の号を授けられると、立身出世を願う大名や公家が頻繁に参拝するようになり、神社は大いに栄えたといいます。
秀吉の死後に聚楽第が取り壊され、現在の地に移された後も神社は多くの人々の崇敬を集め、全盛時には参道に三百以上の鳥居が建ち並びました。いまではまわりを住宅街に囲まれたとても小さな神社ですが、昔日と変わることなく、人々の信心を集めつづけています。
百人一首 永久の恋歌
平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、清少納言の名歌をご紹介します。
夜をこめて
鳥の空音は
はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
- 清少納言
- 夜の明けぬうちに、鶏の鳴きまねをして人をだまして 関を通ろうとしても、あの函谷関ならともかく、男女が逢うという逢坂の関は、通ることを許しませんよ。
名随筆、『枕草子』の作者として知られる清少納言(せいしょうなごん)の第六十二番。彼女はそのなかで、この歌を詠んだいきさつをつぎのように記しています。
ある夜のこと、貴族の藤原行成(ふじわらのゆきなり)が彼女のもとを訪問。二人は遅くまで話しこみますが、宮中で物忌(ものい)み(神事の準備)があるからと、行成は帰っていきました。翌朝、行成は「昨夜、鶏の声にせかされて帰ったのはとても残念だった」という文を寄越します。そこで彼女は、古代中国の王族である孟嘗君(もうしょうくん)が、部下に鶏の鳴きまねをさせて函谷関(かんこくかん)の番人をだまし、窮地を逃れたという故事をふまえて「鶏の声とは函谷関のことですか」と文を返しました。すると行成は、「その関ではなく、あなたと私とのあいだの逢坂の関ですよ」と、ふたたび意味深長な文を寄越したのです。
彼女は行成に対して、特別な感情を抱いていませんでした。そんな相手から思わせぶりな文を受け取って気分を害したのでしょうか、「私があなたと逢ったりするものですか」とやりかえしたのです。清少納言はとても勝ち気な女性だったといい、この歌からは彼女のそんな性格が伺えます。
清少納言はいまでいうところのバツイチの女性。十代の終わりごろに陸奥守(むつのかみ)、橘則光(たちばなののりみつ)と結婚して子どもを一人産みますが、ほどなく離婚。その後一条天皇の中宮である定子(ていし)に女房として仕えはじめると、才気にあふれる彼女は一躍宮廷サロンの花形となります。そして行成をはじめ、藤原実方(ふじわらのさねかた)、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)らと親交を深め、なかでも実方と恋愛関係にあったといわれています。
長保(ちょうほう)二年(一〇〇〇)に定子が亡くなると宮廷を離れ、藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚しますが、その後の人生については詳しくわかっていません。そのためか、全国各地に彼女にまつわる伝説が点在し、墓と伝わる場所も数ヶ所存在しています。
小倉山荘 店主より
早苗饗(さなぶり)
旧聞になりますが、今年も豊作を願う「御田植え祭」を去る六月三日、小倉山荘 竹生の郷・御田で執り行ないました。宮司が五穀豊穣を祈願した後、紺の絣に赤いたすきをかけ、すげ笠をかぶった約二十名の早乙女が一列に並んで苗を植えていきました。
かつてこの国には、農繁期にお互いが助けあう慣わしがあり、田植えを終えると、ともに汗を流した隣近所の人にご馳走を振る舞う「早苗饗」が行なわれました。自分たちの命をつなぐ田植えは、協働により培われる地域のつながりや、そのありがたさを実感させてくれる絶好の機会でもあったのです。しかし、機械化の進行に伴い農作業が楽になった一方で、協働田植えはその姿を消してしまいました。
日本人は田植えを通して、ともに助けあう美しい気風を育んできました。そして「早苗饗」は、地域や家族の絆をより深める美習でした。人のつながりや社会の連帯感が薄れてきている昨今、消えゆく日本の伝統文化の意義を、もう一度考えてみることも大切なのかもしれません。
報恩感謝 主人 山本雄吉