読み物

洗心言

2012年 仲春の号


平安の色

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平安の色【躑躅】
春を彩る花として古くから愛された躑躅(つつじ)。春の襲の色目としても好まれ、清少納言も『枕草子』でその趣を讚えています。

歴史をつくった絆物語

人と人とが出逢い、触れあい、ときにぶつかりあいながら固く結ばれてゆく絆。先人が築き上げてきた歴史を振り返ると、そこにはさまざまな絆のかたちを見つけることができます。
新連載の「歴史をつくった絆物語」。第一回は、『小倉百人一首』の誕生のきっかけとなった、藤原定家と後鳥羽院との絆についてのお話しです。

「恩人への鎮魂から
生まれた名歌集」

飛鳥時代から鎌倉時代初期に至るおよそ六百年の百歌人から、一人一首ずつを収めた詞華集『小倉百人一首』。天智天皇にはじまり順徳院に終わる百の歌は、豊かなことばを通して人が人を想う心情や、雪月花に代表される四季の風趣を、数百年の時を超えて日本人の心に伝えてきました。

編者は藤原定家。数多くの名歌を詠み、有心体(うしんたい)という妖艶な余情美を確立した歌人です。定家は七十代の半ばころ、京都、嵯峨は小倉山の麓に設けた別邸、小倉山荘に蟄居。そして襖色紙に百の歌を揮毫し、それらがのちに歌集としてまとめられ、やがて『小倉百人一首』と称されるようになりました。ところで、一説に、定家は後鳥羽院のために百の歌を選んだといわれています。

後鳥羽院は希代の粋人として名高く、特に和歌をこよなく愛したことで知られる人物。別邸の水無瀬(みなせ)離宮に歌人たちを呼び寄せ、しばしば華やかな歌会を楽しんだといわれています。なかでも才能に恵まれながらも不遇をかこっていた定家を寵愛し、『新古今和歌集』の編者に抜擢するなどして、定家を当代最高の歌人へと育てあげました。

二人はお互いの才能を認めあい、尊敬しあい、蜜月と呼ぶにふさわしい関係を結びます。ところが、あるとき『新古今和歌集』に撰する歌をめぐり意見が対立し、二人の仲は徐々に悪くなり、ついには決別してしまいます。やがて、後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく承久の乱を起こすものの完膚なきまでに打ちのめされ、隠岐に流されてしまいました。

袂を分かったとはいえ、定家にとって後鳥羽院はかけがえのない恩人。しかし、後鳥羽院はいまや幕府の敵であり、政治的な理由からも、定家は苦境に置かれた恩人への想いを公にすることはできませんでした。

やがて、定家は百歌を撰するのですが、それは非業の死を遂げた後鳥羽院のためでした。もっとも『小倉百人一首』にはいまだ解き明かされていない謎が多く、それが事実かどうかはわかっていません。しかし、さまざまな疑問点を深く掘り下げていくと、後鳥羽院への思慕の念が見えてくるのだそうです。珠玉の百首に託した、恩人への鎮魂の想い、それは、数百年の時を経たいまも、けっして色あせることはありません。


京のかたち

千二百年を超える歴史を受け継ぐ京都。世界でも稀な古都にはいまも有形無形を問わず、昔ながらの文化が数多く守られています。
そんな、京都ならではの伝統性をご紹介する新連載の「京のかたち」。
第一回は京ことばをテーマにお話しを進めてまいります。

「上品で、
つかみどころのないのが魅力」

「そおどすなぁ」とか「よろしおすなぁ」とか、どこかゆったりと上品に聞こえる京ことば。それは「なぁ」というように、母音を丁寧に長目に発音することでテンポが遅くなり、口調にまろやかな印象が醸されるからだとか。

京ことばの特徴として、はっきりとした物言いを避ける「つかみどころのなさ」もよく語られます。たとえば、なにを聞かれても「そうどすなぁ」とか「よろしおすなぁ」と繰り返し答えるだけで、自分の考えや意見をなかなか明らかにしない、というように。

では、なぜこのような特徴が生まれたのでしょうか。それは京都の歴史と深い関係があるといわれています。朝廷が長く置かれた京都は、絶えず権力争いが繰り広げられていた地。きょう栄華を誇っていた者が、反対勢力に敗れ、明日には追われる身になっている。そのような異変がたびたび起きる世の中で、自分の考えや意見をむやみに主張すると命取りになりかねません。だから直接的な物言いを避け、どのような意味にも取れるような表現方法が発達したとされています。ゆっくり丁寧に話すのは、相手の様子を伺うための知恵だったのかもしれません。

このように、京ことばは古くから話されてきた言葉。しかし時代とともに変化をつづけ、「どす」や「やす」といった言い方も江戸時代の終わりに生まれたものだとか。現在、そういった言い方をするのは年配の方や花街の人々に限られています。「つかみどころのなさ」についても、若い人たちにはあまりピンとこないといいます。なので京ことばがこれからどうなっていくのか、少々心配なところです。

さて、京ことばでよく使われる言葉に「はんなり」があります。これは上品な華やかさを表わし、着物の色を褒めるときなどに使われる言葉。また、桜の美しさを讚えるときにも使われます。この春は京ことばではんなりと、お花見を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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「ぶぶ漬け」はお茶漬けの京ことば。
京都人の性格を表わすたとえ話で、
いまや全国的に知られた言葉。


百人一首 四季の趣景

季節感あふれる歌をご紹介する新連載の「百人一首 四季の趣景」。
仲春の一首は、前中納言匡房の名歌です。

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高砂の 
尾上の桜 
咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ

前中納言匡房
高い山の峰の桜がとても美しく咲いています。人里近い山の霞よ、ようやく咲いた花が 見えなくなるので、どうか立たないでほしい

桜は平安人にもっとも愛された春の花であり、『小倉百人一首』に撰された桜の歌は六首。前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ)の第七十三番はそのうちのひとつであり、春が深まったころの桜を詠んだ名歌です。

桜は人里から花開きはじめ、次第に山へと移ってゆくものです。つまり、高い山の峰の桜が咲くころには人里は春たけなわであり、あたりは霞がかかるほどの陽気に見舞われています。作者はその霞に対して、しばらく桜を愛でていたいから、どうか立たないでおくれと乞うように呼びかけているのです。

もっともこの歌は題詠歌といわれ、実際の風景を見て詠んだのではなく、想像力を駆使して詠んだもの。そのためか、匂い立つような春の情趣がより印象的に、よりイメージ豊かに感じられるような気がします。

ちなみに、歌に詠まれた高砂は播磨国(はりまのくに)(現在の兵庫県)の名山ではなく、高い山のこと。外山(とやま)は、深山(みやま)に対して人里に近い山を意味する言葉です。

前中納言匡房(大江匡房)は、平安時代の後期を生きた公卿。第五十九番の作者、赤染衛門(あかぞめえもん)と大江匡衡(おおえのまさひら)の曽孫といわれています。

大江家は代々学者を輩出してきた家柄。そのなかでも匡房は飛び抜けた学才を誇り、幼少のころから難解な漢書を読みこなすなどして、神童の名を欲しいままにしたといいます。学問の神様、菅原道真とも比べられたという類い稀なる学才と博識は朝廷にも重宝され、後三条、白河、堀河の三代の天皇に教育官として仕えました。もちろん歌才にもたいへん優れ、数多くの名歌を残したほか、万葉集の研究にも尽力したといわれています。

亡くなったのは七十歳のとき。当時としては長寿であり、公卿として、学者として、そして歌人として、その人生はとても充実していたようです。


小倉山荘 店主より

夢見草

今年も、桜の咲く時節を迎えました。「夢見草」ともいうように、桜は咲いたと思えば、夢のように儚く散ってしまうものです。

もし、桜が一月にわたり咲いたとすれば、私たちの桜に対する思い入れはそれほど強くなかったかもしれません。なぜなら日本人は、儚いものに格別の趣きを見出す、独特の感性を受け継いできたからです。

もっとも、儚いものはなにも桜だけに限りません。自然のものはすべて、いつか終わりを迎えます。桜ほど短くなくても、永遠にあり続けることはけっしてありません。そんな、あらゆる生きとし生けるものに心を寄せ、そのいのちの儚さを慈しむことで、先人は和歌をはじめとする芸術を生み出してきたのだと思います。

感性や芸術といった言葉には縁がないという方も、この春は、桜の営みに心を寄せてみてはいかがでしょうか。眠っていた感性が呼び起こされ、これまで見えなかった桜の美しさが、胸に迫り来るかもしれません。

報恩感謝 主人 山本雄吉