読み物

洗心言

2013年 盛夏の号


四季 花ごよみ

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四季 花ごよみ【澤瀉(おもだか)】
平安時代から文様として好まれ、『枕草子』にも登場する花。葉が矢尻に似ていることから、武将にも愛されました。

故きをたずねて道を知る

悠久の時の流れに耐え、連綿と読み継がれてきたわが国の古典文学。珠玉の作品には、人間力を高め、こころ豊かに生きるための知恵が息づきます。
初夏の「故きをたずねて道を知る」は、日本が世界に誇る舞台芸術、能楽を大成した世阿弥の手による『風姿花伝』をひもときます。

「六百年の時を超え、
いまも心に染みる人生訓」

『風姿花伝(ふうしかでん)』は、世阿弥(ぜあみ)が父であり師の観阿弥(かんあみ)から受けた教えに、独自の解釈を交えて著したもの。能の真髄を後継者に伝えるための理論が七つの段にわたって記された書は、十五世紀のはじめ頃にまとめられたといわれています。
いまからおよそ六百年も昔の書が、今日も輝きを失わない理由。それは、能を究めようとする人々に読み継がれていることに加え、もうひとつ理由があります。『風姿花伝』には専門的な芸道論だけでなく、人が生きて行くうえで役立つことが、含蓄のある言葉でつづられているのです。
 たとえば、第一の「年来稽古条々(ねんらいけいこのじょうじょう)」。年代に応じた稽古の心構えが語られたこの段は、人の理想的な成長過程を示した人生論や教育論として読むことができます。

七歳頃の子どもには自然なよさがあるので、心のままにやらせたほうがよい。十二、三歳では声も姿もそれだけで美しい。しかし、それはそのときだけの花。十七、八歳頃に声や体つきの変化を迎え、花をなくしかける。ここを一生の分かれ目と思い、稽古に励まなければならない。
二十代半ばになると声も体つきも大人らしくなり、賞賛を受けはじめるが、それは新鮮さが受けているだけのこと。周囲からもてはやされても、まだ半人前であることを忘れてはならない。
三十代の中頃に役者として盛りを迎える。このときまでに若さではなく、芸の力による花を咲かさなければならない。なぜなら、近い将来の四十代半ばに衰えがやってくるからだ。また、体力と気力が十分なうちに、芸を次の世代に伝えなければならない。五十を過ぎた役者にできることは、なにもない。しかし、優れた役者になっていれば、真の花が残っているはずだ。

当時は平均寿命が短かったため、現代と比べると年代が合わない部分もあります。しかし、それを割り引いても、世阿弥の言葉は示唆に富んでいます。
親として、もしくは人を指導する立場にある者として、人にどのように接すればよいのか。あるいは自分自身、人生をどのように生きるべきか。世阿弥が説いた心得は、いまを生きる私たちにもさまざまな気づきを与えてくれるのではないでしょうか。


いろはに京ことば

そのゆったりとした語感から、ほっこりやまったりとともに、京ことばの代表的存在といえる「はんなり」。
特に最近、テレビや雑誌など至るところで見かけるはんなりですが、そもそも、どういった意味なのでしょうか。

「華がありながら、
つかみどころがない「はんなり」」

はんなりとは「華あり」または「華なり」という言葉から生まれ、中世以降に使われはじめたとされる京ことば。その意味は、多くの辞書に「上品で落ち着きながら、明るく華やかなさま」というふうに書かれています。つまり派手ではなく、かといって地味でもない、優雅で華のある様子を表す言葉がはんなりといえそうです。ちなみに、地味な上品さを表す京ことばは「こうと」というのだとか。
はんなりは主に色彩に用いられますが、では、具体的にどのような色合いがそうかというと、はっきりした定義があるわけではありません。使う人の好みや感覚によって、それこそ十人十色のはんなりがあるといえそうです。強いていえば、着物をほめるときに「はんなりとした、ええおきものどすなぁ」という年配の方が多いので、上品で華やかな和装に使われている色合いがはんなりといえるでしょうか。
もっとも、着物の見た目は色合いだけでなく、柄にも大きく左右されるといわれます。なので柄が上品で華やかでなければ、いくら色合いに優雅な華が感じられても、その装いは決してはんなりとはしていないのでしょう。

なにか分かったようでよく分からないはんなりは、人に対しても使われることがあります。つつましく、やわらかな物腰のなかに、知性や気品を感じさせる人物がはんなりとした人だそうで、そこからはやはり、着物姿の女性が思い浮かびます。

このほかにも人の声や笑顔、街の雰囲気、景観、料理の味など、いろいろなことやものに対して使われているはんなり。いまや京ことばという枠を超え、標準語となったような感さえあります。もしかすると、本来の意味から外れた使い方がされているのかもしれませんが、どこかつかみどころがないはんなりのこと、それはそれでいいのかもしれません。

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京都に夏の訪れを告げる祇園祭。
豪華絢爛な山鉾の姿は「はんなり」とはいえなさそう


百人一首 こころ模

名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
盛夏の一首は、後鳥羽院の第九十九番です。

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人もをし 
人もうらめし 
あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は

後鳥羽院
人が愛おしくもあり、人が恨めしいとも思われる。思うようにならない、この世をあれこれと思うがゆえに、思い悩むこの身には。

公家と武家が争う時代に翻弄され、悲運の帝といわれる後鳥羽院(ごとばいん)。源平の動乱のなかで幼くして天皇の座につくものの、政権は間もなく鎌倉幕府のもとに。十九歳で上皇となるころには北条氏が幕府の実権を握り、朝廷との対立はますます深くなり、世のなかも激しく揺れ動いていました。

この歌は、後鳥羽院が三十二歳のころ、それまでの道のりを述懐して詠んだ作品。上皇としてどれだけ力を尽くしても、自分の思うようにならない世の中。それは、愛おしくもあり、恨めしくもある人たちのためだ・・・。愛憎こもごも、後鳥羽院が思い浮かべたのは一体誰だったのでしょうか。その解釈には諸説があり、誰なのかははっきりとは分かりませんが、自分を取り巻く人間を単純に敵や味方とくくれない複雑なこころ模様が見え隠れしています。

それから十年近くの歳月が過ぎた承久(じょうきゅう)三年(一二二一)、後鳥羽院は幕府の打倒を企て、皇子の順徳院(じゅんとくいん)(第百番の作者)らとともに承久の乱(変)を起こしましたが、あえなく敗走。隠岐島に流され、それから十九年の日々を辺境の島で過ごした後に崩御しました。
こう見ると、その人生は苦しみの連続だったように思えますが、後鳥羽院の暮らしぶりは華やぎに満ちたものでした。管弦などの遊びをこよなく愛し、なかでも特筆すべきが水無瀬(みなせ)離宮の造営です。贅沢を極めた屋敷に、藤原定家をはじめとする一流歌人を招き、盛大な歌会をたびたび開催。ときには白拍子(しらびょうし)と呼ばれる遊女を交えての宴が開かれたと、定家の日記『明月記』にあります。

また、自らも優れた歌人であった後鳥羽院は定家らに歌集の編纂を命ずるのですが、そうして撰出されたのが、勅撰集のなかでもっとも繊細で優美とされる『新古今和歌集』でした。


小倉山荘 店主より

夏の虫は氷を疑う

表題の諺は、元来荘子の言葉です。長く生きられない夏の虫は冬を知らないため、氷の存在を信じないという話から、見識が狭いことを意味する諺となりました。

夏の虫に喩えなくても、それは私たちの姿そのものです。人間の一生など、数十億年もの地球の歴史からするとほんの一秒にも満ちません。そして、私たちにも知らないことが星の数ほどあります。つぎの季節はおろか、明日何が起きるのか知らず、同じ人間同士でも、互いに何を考えているのかよく分かりません。

そんな私たちに取り柄があるとすれば、それは想像力を備えていることです。知らないから、分からないからと心を閉ざすのではなく、イマジネーションの翼を広げる。相手が何に苦しみ、何を欲しているかを想像し、痛みを癒してあげようと思いやることが私たちにはできます。
人間の一生は、確かに短いかもしれません。しかし、人の想像力に決して果てはありません。

報恩感謝 主人 山本雄吉