洗心言
2013年 晩秋・初冬の号
四季 花ごよみ
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- 四季 花ごよみ【紅葉】
- 秋の深まりとともに色づく紅葉。万葉の時代から貴族に愛され、野山に分け入り紅葉を探す様は狩りにたとえられました。
故きをたずねて道を知る
悠久の時の流れに耐え、連綿と読み継がれてきたわが国の古典文学。珠玉の作品には、人間力を高め、こころ豊かに生きるための知恵が息づきます。
晩秋・初冬の「故きをたずねて道を知る」は、古今に並ぶ者のいない「俳聖」と讃えられる俳諧師、松尾芭蕉の『おくのほそ道』をひもときます。
「旅を栖(すみか)として、
新しい人生を見つけた俳聖」
芭蕉が生きたのは、江戸時代のはじめ頃。伊賀上野で生まれ育ち、十代の終わりに俳諧の道に入った芭蕉はやがて江戸に移り住み、多くの門人を抱える俳諧師となります。
ところが三十代の半ば過ぎに突如、芭蕉は江戸の街なかから去り、川のほとりに草庵を結んで隠棲を開始。その理由には諸説ありますが、作風よりも金や名声が重んじられる俳壇の風潮に失望したためと考えられています。草庵の庭には芭蕉が植えられ、それにちなんで俳号を桃青(とうせい)から芭蕉にあらためました。
四十歳を迎えた頃、母親の他界を機に、芭蕉は各地への旅をはじめます。そして四十五歳で、門人の河合曽良(かわいそら)を連れて人生最大の旅に出発。江戸から東北、北陸を回り、大垣に終わる六百里余り(約二千四百キロ)、百五十日もの旅の記録が『おくのほそ道』です。
旅の主な目的は、歌枕(歌に詠まれた名所)を巡ることにあったといわれています。芭蕉と曽良は、西行や能因法師といった古人の歌にゆかりのある地をたどりながら、旅をつづけます。
ところで、当時の旅は危険きわまりないものでした。現代のように安全な交通手段などない時代、旅程のほとんどを歩き通すのは、命にかかわることだったといいます。歌枕を巡るという目的はあったにせよ、何がそこまで芭蕉を苛烈な旅に駆り立てたのでしょうか。
『おくのほそ道』は、このような一節からはじまります。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」。月日とは、永遠に旅をつづける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である、と。
芭蕉は、この世を生きることを旅と考えていました。その根底には、人生の本質が無常や流転にあると見なした、独自の思想があったといわれています。なるほど、旅はあらゆる物事が絶え間なく変化する自然に身をゆだねることであり、見知らぬ土地や人との出逢いと別れの繰り返しでもあります。芭蕉の考え通り、旅は無常そのものであり、何もかもが移り変わって止まない人生そのものといえるでしょう。
この旅を通して、芭蕉は「不易流行」という境地に至り、俳諧を人生の奥深さを表す文学へと高めました。芭蕉が旅立った本当の理由、それは人生を疑似体験することで、新しい生き方を見つけることにあったのかもしれません。
いろはに京ことば
京ことばには、本来とはちがった使われ方をしている言葉があります。
最近、若い人たちがよく使う「ほっこり」もそのひとつ。
どこか暖かみがあり、のんびりとした響きをもつ言葉ですが、もともとはどんな意味なのでしょうか?
「じつは、
癒し系のことばではない
「ほっこり」」
標準語の「ほっこり」は、「ほかほかと暖かい」とか「ふっくら」とか、「ほっとする」といった意味で使われることが多いようです。大方の辞書にも、そのような意味が載せられています。
ところが、京ことばのほっこりの意味は、それらと異なります。本来「疲れた」とか「たいへんだった」という意味で使われてきたのです。たとえば、多くの人で賑わう場所から家に帰ってきたときや、骨の折れる仕事を無事に終えたときに「あぁ、ほっこりしたわ」というように。
ほっこりは、もともと京ことばですが、いつしか標準語になった言葉。そして最初にご紹介したように、京都を含めて全国的に、本来とはちがった意味で使われるようになりました。しかし「ほっとする」とは、ニュアンス的に近いものがありそうです。
ほっこりと同じような京ことばに、「まったり」が挙げられます。「休みの日は家でまったり過ごす」といったように、くつろいだ様子を表す言葉として全国的に使われているまったりは、そもそも味覚を示すもの。まろやかな口当たりのなかに、コクがある様子を表す京ことばです。
どのような味がまったりかというと、京都ではお雑煮に使われる白味噌のそれといえば、いちばん分かりやすいでしょうか。もっとも、京都でものんびりするという意味で、まったりが使われていたとする説もあります。
ほっこり、まったりとくれば、忘れてはならないのが「はんなり」。最近では「おっとりした」という意味で使われることの多い言葉ですが、本来は上品な華やかさを感じさせる色合いなどを表します。
ほっこりも、まったりも、はんなりも、標準語ではどこかのんびりとした、心のゆとりを感じさせる意味になってしまいました。これは京ことば独特の、やわらかな語感のせいでしょうか。
百人一首 こころ模様
名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
晩秋・初冬の一首は、参議雅経の第九十四番です。
み吉野の
山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり
- 参議雅経
- 夜がふけるにつれ、吉野の山から吹き下ろす風は寒い。古い都であった吉野の里は寒さが身にしみて、砧で衣を打つ音が寒々と聞こえてくる。
いまでは、聞くことのできなくなった砧(きぬた)の音。砧は皺を伸ばしたり、艶を出したりするために布を打つ道具のことで、むかしは夜ともなるとトントンと、あちらこちらの家から砧で布打つ音が聞こえてきたといいます。
吉野は、万葉の時代に天武天皇や持統天皇の離宮が営まれた桜の名所でありながら、平安京から遠く、しかも山深いことからどこか侘しさを感じさせるところでもありました。ゆえに、平安人は吉野に郷愁と感傷を抱き、異郷の趣を多くの歌に詠んできたのです。
この歌は、第三十一番の作者でもある坂上是則(さかのうえのこれのり)の「み吉野の山の白雪積るらしふるさと寒くなりまさるなり」を本歌としたもの。参議雅経(さんぎまさつね)は季節を晩秋に替え、砧を入れることで聴覚にも訴える歌に仕立て直しています。
山々から吹き下ろす、秋の冷え冷えとした風に乗り、どこからともなく聞こえてくる砧の音。それは、遠くに出かけた夫の帰りを待ちながら、妻が打っていた音なのでしょうか、それとも独り暮らしの寂しさをまぎらわせるために、寡婦が打っていた音なのでしょうか。まだ見ぬ吉野を舞台に、さまざまな想像を巡らせながら、雅経は深まる秋の情趣をしみじみと楽しんでいたのかもしれません。
参議雅経は、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて生きた藤原雅経のこと。仕えていた後鳥羽院に認められ、太政官のひとつである参議に任ぜられました。『新古今和歌集』の編纂に携わった雅経は蹴鞠の達人としても名高く、後鳥羽院や鎌倉二代将軍の源頼家にその技を伝授。後に、蹴鞠の宗家である飛鳥井(あすかい)家の祖となりました。
小倉山荘 店主より
冬来りなば春遠からじ
人生は巡る季節のようなものです。そのことをあらためて思い出させてくれるのが、表題に挙げたイギリスの詩人、シェリーの詩の一節です。
冬が来れば、すぐ後にかならず春が訪れるように、苦境を耐え忍べば、やがて幸せな時期がやって来ます。
人間の世界だけでなく、自然界にも同じことがいえます。木枯らしに吹かれ、葉を落とされた木は、厳しい寒さを糧として再び美しい花を咲かせ、気高い薫りを放ちます。
もし、今、自分の置かれた立場が冬であったとしても、それはさらに成長するための好機と思い、日々精進を積めば早晩、大輪の花を咲かせられるはずです。
季節は日ごとに冬に向かいますが、かならず巡り来る春を思えば、心が自ずと温かくなる晩秋です。
報恩感謝 主人 山本雄吉