読み物

洗心言

2014年 仲春の号


花鳥風月雨雪

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花鳥風月雨雪【桜】
古くから、美しいものを花に例えてきた日本人。紫式部は『源氏物語』のなかで、源氏がもっとも愛した紫の上を桜に例えています。

平安人の生き方に学ぶ

日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
新連載の「平安人の生き方に学ぶ」。第一回は日本の仏教に大きな変革をもたらした名僧、空海の生き様をひもときます。

「人々の幸せに生涯を
捧げたひと、空海」

空海がこの世に生を受けたのは、宝亀(ほうき)五年(七七四年)のこと。讃岐の名家出身の空海は幼少期から神童ぶりを発揮し、やがて都の大学で儒学や漢学を学びはじめます。ところが、有能な官吏となるための机上の学びに疑問を抱くと、自らエリートコースを外れて険しい山野での修行に没頭。そのころの詳しい足取りはわかっていませんが、ある山岳修行者と出会い、記憶力を無限に高める虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を体得したとされています。
その後も厳しい修行を繰り返すなかで、空海はひとつの理想を掲げます。その理想とは、仏教を通じて民衆の苦しみを解きほぐすことでした。ほんの一握りの特権階級に、政治の道具として利用された当時の仏教は普通の人々にとって縁遠い存在であり、また、この世ではなく、死後に救済されるという教えも空海には受け入れ難いものでした。

そんな空海が、膨大な数の経典を読破した末に巡り会ったのが、大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつしんぺんかじきょう)という密教の経典。しかしその全容は、師から直接伝授されないと理解できないものでした。そこで空海は、当時の仏教の中心である唐での修業を決意。そして幾多の困難を乗り越えて唐に入り、密教を大成した高僧の恵果(けいか)からその奥義を余すところなく受け継ぎました。
帰国した空海は日本各地で布教に取り組み、民衆の心の救済に乗り出します。さらに、最先端の土木技術を唐から持ち帰った空海は行く先々で井戸を掘ったり、堤防を築いたりして人々の暮らしに貢献。また、誰もがさまざまな学問や技芸を身に付けられるよう、庶民にも門戸を開いた日本初の私塾、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都につくりました。

与えられた地位に安住することなく、濁りのない目で世の中を見つめ、つねに問題意識を持つ。そして果敢に世界に飛び出し、そこで身に付けた知識と技術を、人と社会の幸福のために惜しげもなく使う。なかには伝説の域を出ないこともありますが、空海の生き方はいま、もっとも求められている生き方といえないでしょうか。
自ら掲げた理想を実現するために、つねに挑戦を繰り返した空海。驚嘆すべき意思の持ち主ですが、一説に名士である叔父の威光を利用したり、ときには天皇を懐柔したこともあったとされています。高潔な人格者でありながら、どこか人間臭さを感じさせるところも空海の魅力なのかもしれません。


京都おちこち

古都、京都をぶらり歩けばおちこち(あちらこちら)で、風変わりな名前を持つまちに出逢います。
新連載の「京都おちこち」では、ユニークな地名の由来やまちの歴史を紹介してまいります。

「秀吉の都市改造によって
生まれた天使突抜」

その言葉に、どこか西洋的な趣を感じさせる「天使突抜(てんしつきぬけ)」。日本を代表する古都には少々不釣り合いな名前のまちがあるのは、ちょうど京都の真ん中あたり。それは、東は西洞院(にしのとういん)通と西は油小路(あぶらのこうじ)通とのあいだ、北は松原通から南は六条通まで、国道一号線の五条通を挟んで四丁目までつづくまち。随所に京町家が佇み、道の両側に細い路地の入口がいくつもある、昔ながらの町並みが残されたところです。

変わった町名は、まさに天使を突き抜けたことに由来します。天使とは、近隣にいまも残る五條天神(ごじょうてんしん)社のこと。平安遷都とともにはじまり、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の出逢いの地といわれる神社はかつて「天使の宮」と呼ばれ、社域も現在より広大なものでした。

そこに中世、豊臣秀吉が手がけた都市改造事業の天正の地割により、新たな道がつくられることになりました。天使の宮を突き抜けるように新設された道は「天使突抜通」と呼ばれ、その道沿いに後に、天使突抜という町名がつけられたのです。ちなみに天使突抜通の現在の正式名称は東中筋通といい、北は仏光寺通から南は京都駅の手前の木津屋橋通までつづいています。また、突抜は図子や辻子とともに、袋小路の路地の突き当たりを貫通させた道のことであり、京都にはこのほかにも突抜がつく町名がいくつかあります。

さて、天使突抜の北側、五條天神がある松原通は平安京の五条大路にあたる道。神社にも伝説が伝わるように、牛若丸と弁慶が相まみえたのは現在の五条大橋ではなく、かつて松原通に設けられた橋とする説があります。また、松原通は昭和三十年(一九五五年)まで祇園祭の山鉾巡行のコースでもありました。一見何気ない佇まいのまちに、意外な歴史が息づく。これも千年の古都、京都ならではの奥深さかもしれません。

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牛若丸と弁慶が相まみえたという松原通。
秀吉による橋の架け替えを契機にかつての
五条大路が松原通になった


百人一首 こころ模様

名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
仲春の一首は、紀友則の第三十三番です。

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久方の 
光のどけき 
春の日に
しづ心なく 花の散るらむ

紀友則
日の光がのどかにさしている春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散っているのだろうか。

日本人にもっとも愛されている花、桜。『小倉百人一首』にも桜を詠んだ歌が六首収められ、そのなかでもつとに知られているのが紀友則(きのとものり)の一首。国語の授業で親しみ、この歌だけは空で口ずさめるという方も多いのではないでしょうか。

「春日遅遅(しゅんじつちち)」というように、ゆっくりと過ぎていく春の日。それなのに、満開になったと思ったら慌ただしく散りはじめる桜。もっと長く咲き匂い、私を楽しませてくれ・・・。そんな思いを知ってか知らでか、あたかも自分の意志で散るかのような花を見たときの作者の気持ちは、今を生きる私たちにも容易に想像できます。

これと似た気持ちを詠んだ歌に、在原業平のこんな一首があります。「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(世の中に桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに)。もっとも、桜は散る姿も趣があるもの。音もなく静かにはらはらと、あるいは風に吹かれて舞い踊るように、ひらひらと。桜は咲いても散っても絵になる花であり、だからこそ私たちは、桜に心惹かれるのかもしれません。

紀友則は平安時代前期の人で、第三十五番の作者である紀貫之(きのつらゆき)は従兄弟にあたります。四十代半ばで初めての官職に就きますが、歌人としては早くから地位を確立。当時の代表的歌人である紀貫之、壬生忠岑(みぶのただみね)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とともに、醍醐天皇の勅命を受けて『古今和歌集』の撰進に携わるものの、その完成を見ることなく病没します。紀貫之はつぎの歌を詠み、従兄弟である友則の死を悼みました。

「明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ」(私自身、明日の命が分からぬ身だが、日が暮れるまでに残された今日は、ただ人のことが悲しいことだ)。


小倉山荘 店主より

私は失敗したことがない

白熱電球や蓄音機など、その生涯に千三百もの発明を行なった発明王、エジソンの言葉です。その後にはつぎの言葉が続きます。

「ただ、一万通りの上手くいかない術を見つけただけだ」と・・・。
エジソンは数えきれないほどの失敗を繰り返しましたが、本人は失敗と思っていなかったのでしょう。それは上手くいかなかっただけのことで、つぎは上手くいくようにすればよく、それを一万回繰り返したに過ぎないと述べているのです。

未知なるものが無限に存在するこの世の中で、わずか一万一回の挑戦で成功を収めたエジソンにはツキがあったのかもしれません。しかし、ツキを呼び寄せられたのも、努力の積み重ねと、それを苦労と思わない前向きな考えと行動があったからでしょう。
エジソンは一万の教訓と知識を得たわけであり、それはかけがえのない財産となったはずです。

報恩感謝 主人 山本雄吉