読み物

洗心言

2014年 初夏の号


花鳥風月雨雪

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花鳥風月雨雪【燕】
古くは『竹取物語』に登場する燕。稲につく虫を食べることから益鳥として尊ばれ、燕が巣をつくる家は縁起が良いとされてきました。

平安人の生き方に学ぶ

日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
初夏の「平安人の生き方に学ぶ」は、没後数百年を過ぎたいまも日本人の心を魅了しつづける西行の生き様をひもときます。

「心の向くまま自然に、
自由に生きた西行」

平安時代末期、藤原氏に連なる裕福な家系に佐藤義清(のりきよ)として生まれた西行。早くから将来を嘱望されていた義清は、十八歳にして大役に就きます。当時、勢力を強めていた寺社の強訴から上皇を護るため、院御所に仕えた北面武士(ほくめんのぶし)に抜擢されたのです。同い年である平清盛をはじめ、後に錚々たる人士を輩出した精鋭集団は武道だけでなく、諸芸に通じた者だけがその重責を担ったといいます。義清も文武に秀で、とくに和歌の才能に優れていました。
私生活においても妻をめとり、子どもを授かり、順風満帆の日々を送っていた義清はしかし、突然出家をします。それは二十三歳のときのことで、一説に、追いすがるわが子を蹴落として家を後にしたといわれています。一体なにが義清に、仕事も、家庭も、傍から見ればなにひとつ不自由のない生活を捨てさせたのでしょうか。

出家の理由について、義清はなにも書き残していません。そのためあくまでも推測の域を出ないのですが、つぎのことがきっかけになったと考えられています。親しい友の突然の死に、人生の無常を悟った。朝廷で繰り広げられていた、皇位継承を巡る不毛な政争に失望した。狂おしいまでに思い焦がれていた、鳥羽院の中宮である待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうこ・たまこ)との恋に破れた。
円位という僧名を得た義清はまず、鞍馬や嵯峨の小倉山などで修行を重ねます。そして陸奥への旅を皮切りに、諸国をめぐる漂白の旅を開始。やがて悟りの世界である西方浄土への憧れをこめて、西行と名乗るようになりました。

人知れず悩みに悩んだ末、自分にとっては苦痛の固まりでしかない俗世を捨て、悟りに近づこうとした西行。しかし、その心の中にはまだ、解きほぐすことのできない葛藤があったようです。西行はこんな歌を遺しています。「世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都はなれぬ我が身なりけり(俗世への執着を捨てたはずなのに、都での日々をいつまでも思い出してしまう私だ)」。
煩悩を断ち切れない苦しみを紛らわすかのように、西行は花や月に心を寄せ、山の静けさに身を任せながら大好きな歌を詠みつづけたといいます。そして二度と俗世に戻ることなく、七十三歳で生涯を閉じました。
弱さを隠すことなく、いたずらに頑張ることなく、しかし孤立を恐れなかった西行。そんな生き方に、私たちは本当の精神の自由さを感じるのかもしれません。


京都おちこち

京都市内でも有数の学生街として知られる百万遍。
日本を代表する名門大学を擁するまちの名は、鎌倉時代に後醍醐天皇より授けられた由緒あるものですが、じつは正式な地名ではありません。

「疫病を鎮める念仏に
にちなんだ百万遍」

百万遍(ひゃくまんべん)と呼ばれるのは、京都市内を南北に走る東大路(東山)通と、同じく東西に走る今出川通との交差点一帯。京都大学のキャンパスが広がり、さまざまな飲食店や古書店などが集まる周囲には、学生のまちらしい雰囲気が漂います。

百万遍の名は、交差点の北東にたたずむお寺に由来します。知恩寺というそのお寺は、浄土宗の開祖、法然上人が開いた草庵を前身とする古刹。このお寺が百万遍と呼ばれるようになったのは、法然上人の死から百二十年ほどが経った元弘元年(一三三一)のことでした。当時、京都では疫病が猛威をふるい、それを鎮めるために後醍醐天皇は勅命を下します。善阿空円(ぜんあくうえん)という僧は、七日七夜にわたって念仏を百万回唱える百万遍念仏を達成。すると疫病が治まったことから、後醍醐天皇より知恩寺に百万遍の号が与えられたのだそうです。

このように、お寺の号に由来する百万遍は正式な地名ではありません。そのため、知恩寺のまわりに百万遍がつく町名は見当たりませんが、交差点やその周辺のまちは古くから百万遍と呼ばれてきました。

ところで三条河原町や烏丸丸太町というように、京都の交差点は通常、ふたつの通りの名前を組み合わせて表されます。ところが、東大路通と今出川通の場合は百万遍といい、これと似たようなケースに祇園や北野白梅町などがあります。祇園は東大路通と四条通との交差点、北野白梅町は西大路通と今出川通との交差点のことで、それぞれの周辺のまちも交差点と同じ呼び方をします。その理由は定かではありませんが、百万遍も、祇園も、北野白梅町も、こちらの呼び方のほうが地元の人にはしっくりくるからなのでしょう。

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百万遍一帯に広がる京都大学。
そのシンボルともいえる時計台は誕生から九十年近くになる


百人一首 こころ模様

名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
初夏の一首は、二条院讃岐の第九十二番です。

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わが袖は 
潮干に見えぬ 
沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし

二条院讃岐
私の袖は引き潮にも見えない沖の石のように、あの人は知らないことでしょうが、涙に濡れて乾くまもありません。

石といえば血も心も通わないものであり、恋の歌にはおよそ似つかわしくない存在です。ところが二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の歌は、そんな石に寄せる恋をテーマにした一首。一見、奇をてらったように思えるものの、歌をじっくり味わうと切ない恋心が伝わってきます。

海の底に沈んでいる沖の石は、たとえ潮が引いても海のなかにあるため、その姿を現わすことはありません。讃岐はその石に、報われない恋のため、人知れず涙する心を重ねているのです。

悲しみの涙に濡れ、乾くひまのない袖という内容は、とてもありふれたものでした。また、これは和泉式部の「わが袖は水の下なる石なれや人に知られでかわく間もなし」の本歌取り。讃岐はともすれば陳腐になるところを、「水の下なる石」をさらに深く沈め、けっして人目につかない「潮干に見えぬ沖の石」とすることで、本歌よりも印象的な作品に仕上げたのです。この歌は多くの人の心を掴んだことから、後に讃岐は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになりました。

二条院讃岐は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた人。後白河天皇や平清盛に仕え、歌人としても名を馳せた武将であり公卿の源頼政の娘ですが、本名や正確な生没年もわかっていません。二条院讃岐とは、二条天皇に仕えた讃岐という名の女房であったということを意味します。二条天皇が崩御すると、陸奥守などを務めた藤原重頼と結婚。その後、後鳥羽天皇の中宮である任子(にんし)に仕え、晩年には出家したとされています。

父の血を継いだ讃岐は、二十歳前後から数々の内裏歌会に出席し、早くから当代一流の女流歌人としての地位を築き、晩年まで歌を詠みつづけました。ちなみにこの歌は、若かりしころのもの。実体験にもとづく歌なのか、まったくの想像から生まれた歌なのか、気になるところです。


小倉山荘 店主より

八十八夜の別れ霜

「米」は、籾が四方に散った様子をかたどった字といわれています。その一方、末広がりの八が重なった八十八に分けられることから、米にはつぎのような言い伝えがあります。

苗を植え、稲穂を実らせ、米を食べられるようにするまでに、八十八人が八十八もの手間をかける。そうしてつくられた米のひと粒ひと粒に、八十八の神がいる・・・と。私たち日本人の祖先は、自然のあらゆるものに神が宿ると考え、それらに感謝と畏敬の念を抱き、自然の摂理に従いながら生きてきたのです。

遅霜の降りる心配がなくなると、日本各地で米づくりの準備がはじまります。その時期は「八十八夜の別れ霜」というように、立春から八十八日が過ぎた初夏の入口にあたります。米づくりに勤しむ人、その恩恵に預かる人、すべての人の幸せを願うように、田んぼが緑に染まりはじめる季節の到来です。

報恩感謝 主人 山本雄吉