洗心言
2014年 盛夏の号
花鳥風月雨雪
-
- 花鳥風月雨雪【風】
- 梅雨明け間近に吹く白南風(しらはえ)、土用中に吹く土用間(どようあい)、秋の到来を告げる涼風(すずかぜ)。さまざまな風が夏を吹き抜けてゆきます。
平安人の生き方に学ぶ
日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
盛夏の「平安人の生き方に学ぶ」は、『小倉百人一首』を代表する女流歌人のひとり、和泉式部の生き様をひもときます。
「歌で恋し、
明日を生き抜いた和泉式部」
恋多き女性。そんな形容が他の誰よりもふさわしい、和泉式部の最初の結婚は十八歳のときのことでした。父の部下である橘道貞(たちばなのみちさだ)と結ばれた式部は夫に尽くし、一女をもうけて幸せに暮らします。ところが、地方官僚を務める夫の仕事の関係で離れて過ごすようになると、やがて両者の気持ちがすれ違いはじめました。
そんなときに式部の前に現れ、互いに恋に落ちるのが、冷泉(れいぜい)院の第三皇子である為尊(ためたか)親王。それは式部が二十七、親王が二十二のときのことでした。夫と娘を持つ年上の女と、やんごとなき皇子との逢瀬はたちまち世を騒がす醜聞に発展。その結果、式部は夫から絶縁され、父からは勘当を言いわたされます。不運はそれだけに終わらず、二年後には親王も病いで失ってしまうのです。後ろ盾をすべてなくし、途方に暮れる式部。そのもとに、すぐさま新しい恋が訪れます。
その相手は敦道(あつみち)親王。為尊親王の四つ違いの弟です。最初は密かに育まれた恋ですが、親王が式部を自邸に招き入れ、それに激怒した正妃が邸を去ることが知れわたると、二人は世間の非難の矢面に立たされます。しかし二人は愛を貫き、それから四年の歳月が過ぎたころ。兄と同じく、若き親王は恋に燃え尽きたように病いで、この世を去ってしまうのです。その後も多くの求愛を受けるなか、式部は藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚。そして夫とともに丹後に下りますが、それからのことはよくわかっていません。
世の男性を引きつけて止まなかった式部の魅力。それは美貌とともに、天賦の歌才にあったとされています。平安人にとって歌は生きる術。その優劣で自分に対する評価や出世が決まり、恋愛においても歌ひとつで身分や年齢を超え、相手の心を動かすことができたのです。求愛の歌を受けると、式部は相手の機微に巧みに触れる歌を贈り返しました。それが式部への恋心をいっそう募らせ、式部は式部で淋しさをまぎらわせるために、あるいは明日を生き抜くために、さらなる恋に身を任せたのでしょう。
情熱的でありながら、どこか恋を冷静に捉えていた式部。それは命と同じく、恋も無常であることを知っていたからなのかもしれません。そんな式部が晩年に詠んだ『小倉百人一首』の第五十六番。「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな(私はやがて病いで命を失うでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度あなたにお逢いしたいものです)。
何番目の恋の相手に贈った歌なのか、いまでは知る由もありません。
京都おちこち
京都のおちこち(あちらこちら)にある、変わった地名などをご紹介する「京都おちこち」。
今回はレトロな佇まいで知られる嵐電の、駅名の由来をひもときます。
「難読駅名に秘められた
古都の歴史」
その名の通り、嵐電(らんでん)は嵐山と市内中心部を結ぶ電車のこと。京都市内で唯一、路面を走る嵐電はかつてのチンチン電車のような趣です。その歴史は古く、明治四十三年(一九一〇)に開業した路線にさかのぼります。
この嵐電には難読駅名が多くあります。たとえば、西院。駅が位置する地名や阪急電鉄の同名駅は「さいいん」と読みますが、嵐電では「さい」であり、むかしは西院をそう呼ぶのが一般的だったそうです。西院という地名は、淳和(じゅんな)天皇の離宮である淳和院が御所の西にあったことにちなみます。「さい」と呼ばれるようになった理由には、淳和院が道祖(さい)大路に面していたため、あるいはかつてこの辺りに賽(さい)の河原があったから、など諸説があります。
蚕ノ社も、はじめての人には少々分かりづらい駅名。これは「かいこのやしろ」と読み、駅の近くに位置する木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の摂社、蚕養(こかい)神社に由来します。平安京造営以前、この辺りには大陸から渡来した豪族の秦氏一族が定住。かれらは機織や酒造、土木などさまざまな技術を日本にもたらすのですが、そのうちのひとつが養蚕であり、その神を祀ったのが蚕養神社でした。ちなみに、木嶋坐天照御魂神社の境内には柱が三つの三柱(みはしら)鳥居があり、鬱蒼と茂る木々のなかに不思議な姿を見せています。
蚕ノ社から、聖徳太子ゆかりの太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)を過ぎて一駅目の帷子ノ辻も、読むのが難しい名前。これは「かたびらのつじ」と読み、嵯峨天皇の皇后の葬列が嵯峨野へと向かう途中、棺に被せてあった着物の帷子がこの辺りで飛び散ったことに由来するそうです。このほかにも車折(くるまざき)神社や鹿王院(ろくおういん)など、嵐電には古都の歴史が息づく駅名がつづきます。
百人一首 こころ模様
名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
盛夏の一首は、三条右大臣の第二十五番です。
名にし負はば
逢坂山の
さねかづら
人に知られで くるよしもがな
- 三条右大臣
- 逢坂山のさねかづらが「逢って寝る」という名を持っているなら、 さねかづらが手繰れば寄ってくるように、人に知られずにあなたに逢いにいく方法があればよいのになあ。
『小倉百人一首』指折りの、技巧を駆使した恋歌。逢坂山(おうさかやま)と「逢う」、サネカズラと「さ寝(男女が共寝すること)」、繰ると「来る」の三つの掛詞を用いて、密かな恋にもだえる心を詠んでいます。
その理由はさまざまですが、平安時代には男性が人目を忍んで女性のもとに通うという習慣がありました。思い焦がれてどうしようもないが、大っぴらになってはいけない。しかし、逢いたい。何とかできないものかという気持ちを、作者は手の込んだ歌で相手に伝えようとしているのです。
何事にもスピードを求める現代人からすれば、非常にまだるっこしいやり方に思えてなりません。しかし王朝人のあいだでは、恋歌を贈るときは技巧を凝らせば凝らすほどよいとされ、受け取るほうも、技巧と愛情は比例するものと考えていました。密かな恋にもだえながらも歌をおろそかにしない、王朝人の優雅な心持ちが感じられる一首です。
ちなみにサネカズラは蔓を伸ばす植物で、夏に小さな黄色い花を咲かせ、秋から冬にかけて紅い実をつけます。王朝人は季節の花を添えて恋歌を贈ることもあったようなので、この歌はいまごろの季節に詠まれたのかもしれません。また、サネカズラは「美男葛(びなんかずら)」ともいいますが、これは蔓に含まれる液を男性の整髪料に用いたことに由来します。
三条右大臣(さんじょうのうだいじん)は平安時代の中ごろを生きた藤原定方(さだかた)のことで、右大臣に就き、三条坊門小路に屋敷を構えたことから三条右大臣と呼ばれました。その優れた歌才によって醍醐天皇の寵愛を受けた定方は宮廷歌壇の中心となり、紀貫之(きのつらゆき)や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)らのパトロンとしても名を馳せました。
また、定方は子宝にたいへん恵まれ、第四十四番の作者の中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)は五男であり、娘には醍醐天皇の女御となり、光源氏のモデルの一人とされる敦慶親王(あつよししんのう)と深い恋に落ちた能子(のうし)がいます。
小倉山荘 店主より
秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
立秋と言えど名ばかりで、そのころはまだ暑い盛りです。しかし、季節は確かに移ろっています。それは目にはっきり見ることはできませんが、風が少しずつ夏らしさを薄め、その音に心地よい驚きを覚えさせられる。そんな一瞬を三十一文字に描いたのが表題の一首、『古今和歌集』にある藤原敏行の歌です。
かつて日本人は、生まれ変わるように巡りめぐる自然の営みを五感で味わい、季節の移ろいを知りました。風の音や匂いや肌触り、空の色や雲の形が日一日と変わるのにあわせて暮らしを整え、その合間に心の動きを歌や絵にして四季を過ごしてきたのです。
いま、世界で、日本人の精神性が見直されています。物の豊かさだけでは得られない豊かさを人にもたらし、自然のありのままの姿を自然に還すための知恵として、繊細な季節感が強く求められているのです。これからの地球を想い、平安人の心にならい、まずは自らの振る舞いを見直したい夏です。
報恩感謝 主人 山本雄吉