読み物

洗心言

2014年 初秋の号


花鳥風月雨雪

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花鳥風月雨雪【月】
浮かび、輝き、満ち、欠け、消え、ふたたび浮かぶことを繰り返す月に、先人は無常を感じ、その美しさを多くの和歌に詠んできました。

平安人の生き方に学ぶ

日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
初秋の「平安人の生き方に学ぶ」は、天台密教を大成し、世界三大旅行記のひとつである『入唐求法巡礼行記』を遺した円仁の生き様をひもときます。

「名を残さず、
徳を残した円仁」

円仁(えんにん)は延暦十三年(七九四)に、下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の豪族の子として生まれました。幼いころから仏教に親しみ、わずか九歳で寺に入った少年の憧れ。それは、すべての人が仏になれるという教えを広めようと、唐から天台密教を持ち帰った最澄でした。十五歳のとき、比叡山延暦寺を開創した最澄に晴れて弟子入り。以来、修業に励み、学問を深めることで師から全幅の信頼を得ると、講義を任されるまでになりました。
弘仁(こうにん)十三年(八二二)に最澄が没すると、その遺志を受け継いだ円仁は布教のため、日本各地を精力的に歩きまわり、やがてある決意をします。それは天台密教を完成させるべく、遣唐使として求法の旅に出ることでした。最澄も経験した遣唐使の道中は、生死を賭けたもの。その過酷な旅に、四十歳を過ぎてから挑戦したのです。

二度の失敗の末、命からがら入唐した円仁を待ち受けていたのは、非情な報せでした。短期間の留学僧という資格ゆえ、長い旅は許されなかったのです。しかし、あきらめ切れない円仁は弟子を引き連れ、独自の旅を決行。不法滞在の身で幾多の危機にさらされながらも、一行は中国仏教の聖地である五台山にたどり着き、さらに首都の長安に到着しました。そこで念願叶い、多くの高僧から密教の奥義を授かりますが、当時の唐は仏教弾圧の真っただ中。そのため円仁たちも迫害に遭い、さらなる苦難を経て祖国に帰還したのです。この、九年半にも及ぶ旅の途上、円仁は日々の出来事を克明に記録しました。それがマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の『大唐西域記』と並び、世界三大旅行記のひとつに数えられる『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』です。

帰国後、円仁は天台密教を発展させながら、五百を超える寺の開創や再興に努めました。円仁ゆかりの寺には平泉の中尊寺など、後に日本文化に大きな影響を与える寺も数多くあります。その後、比叡山延暦寺の最高位である座主(ざす)に就き、七十一歳で入寂した円仁に、清和天皇は慈覚(じかく)大師の号を与えます。大師号の授与は、伝教大師の号を与えられた最澄とともに、日本で初めてのことでした。
これだけの人物でありながら、円仁の名はあまり知られていません。一説に、円仁自身は出世欲を持たず、つねに進んで奥地に分け入り、人々の救済に奔走したといわれています。
名を残さず、徳を残す。円仁が志したのは、まさにこのような人生だったのでしょう。


京都おちこち

京都のおちこち(あちらこちら)にある、変わった地名などをご紹介する「京都おちこち」。
今回は古刹の六波羅蜜寺を擁する、東山は轆轤町の名前の由来をひもときます

「冥府への入口とされた
平家一門のまち」

花街の祇園や宮川町にほど近く、昔ながらの街並みを残す轆轤(ろくろ)町。轆轤といえば、焼物づくりに欠かせない道具。一風変わった町名は、その周辺が京焼(清水焼)の拠点であることに由来するものですが、じつはおどろおどろしい前史を持っているのです。

かつて、轆轤町は髑髏(どくろ)町と呼ばれていました。髑髏は「しゃれこうべ」を意味し、それはここからたくさんの骨が出土したことにちなんだもの。平安時代以前からしばらくのあいだ、現在の轆轤町から東山山麓にかけての一帯は鳥辺野(とりべの)と呼ばれた葬送の地であり、ここには京のあちこちから多くの亡き骸が運ばれました。それがいつしか土に埋もれ、やがてしゃれこうべとなって再びこの世に現れた姿を見て、人々はこのあたりを髑髏原や髑髏町と呼びはじめたのです。

しかし、それではあまりに縁起が悪いと考えられたのでしょう。江戸時代初期に京都所司代により、その周囲に轆轤職人が多数暮らしていることから、轆轤町と改名されました。

葬送の地の入口であったためか、轆轤町一帯は古くから、この世とあの世との境目とされたところ。『小倉百人一首』の第十一番の作者である小野(参議)篁(たかむら)は、夜な夜な「六道の辻」と呼ばれたここから地獄に通い、閻魔大王の手伝いをしたという伝説があります。そんなまちの名物が幽霊にまつわる飴。これは死後に墓のなかで生まれた子どものために、鳥辺野から母親の幽霊が飴を買い求めたという、江戸時代の怪談を題材としたものです。

轆轤町の歴史にはもうひとつの顔があり、それは平家一門の屋敷街であったこと。平安中期に創建された六波羅蜜寺が、当時の名残をいまに伝えています。

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轆轤町にある「六道之辻」の碑。
ここが冥府への入口であった(?)名残


百人一首 こころ模様

名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
初秋の一首は、素性法師の第二十一番です。

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いま来むと 
いひしばかりに 
長月の
有明の月を 
待ち出でつるかな

素性法師
いますぐに行こうとあなたさまが言ったばかりに、その言葉をあてにして待ち続けていましたが、あなたは来ず、この九月の長い夜の有明の月が出るまで待ち通してしまいましたよ。

これは男性である素性(そせい)法師が、女性の気持ちになって詠んだ一首。一夜をともに過ごして朝に別れる際、今夜また逢おうと約束しておきながら、来なかった相手を恨む気持ちが表されています。

平安時代の恋愛は現代とは異なり、夜になると男性が女性のもとに通うというスタイルが普通でした。自分からは逢いに行けず、男性の訪れをひたすら待つことしかできない辛さを、素性法師は多くの女性になりかわって詠っているのです。

ところでこの歌の解釈には、女性が待っていたのは一夜だけとする「一夜説」と、数ヶ月にわたるとする「月来(つきごろ)説」の二通りがあります。撰者の藤原定家は後者を支持していたそうですが、もしそれが正解だったなら、歌に詠まれた待つ苦しみは並大抵のものではなかったでしょう。

ちなみに長月は陰暦の九月のことで、現代では九月下旬から十一月上旬ごろ。有明の月は陰暦の十六日以降、夜が明けても空に残っている月のこと。つまりこの歌の月は、秋も終わりに差し掛かったころの月ということになります。

素性法師は平安時代前期の人。第十二番の作者である僧正遍昭(そうじょうへんじょう)の子で、平安遷都で知られる桓武天皇のひ孫にあたります。清和天皇に仕え、清涼殿の殿上の間に昇ることを許された殿上人となりますが、父の勧めにより若くして出家。それからは京の雲林院や大和の良因院に暮らしながら、歌会をたびたび開きます。そうして磨かれた歌才は宇多天皇にたいそう気に入られ、素性法師は天皇主催の歌合の常連として、その名を高めました。


小倉山荘 店主より

耐える

昔の人は言います。「若いときの苦労は買ってでもせよ」と。
それは、若いときに苦労や失敗の体験をいろいろ重ねているうちに、たくましく、思いやりに溢れた心を身につけるからです。苦労したことのない人間は、なんでもないちょっとしたことで挫折したりします。

こんな諺があります。
「霜に打たれた柿の味、辛苦に耐えた人の味」
軒下に吊るされた渋柿は冬の寒風にさらされることで、甘く風味を増します。人も辛苦に耐えることで人間的な味わいを増す、と言うのです。しみじみと胸に響いてくる言葉です。

大事なことは、どんな苦労に遭遇しようとも、信念をもって自分を励まし、くじけず、へこたれず、耐えてそれをのり超えることです。
人生は思いがけない逆境に置かれることもしばしばです。辛苦を避けるのではなく、自らを成長させる滋味として味わう。口で言うほど易しいことではありませんが、辛苦を味に変えるような、そんな生き方をしたいものです。

報恩感謝 主人 山本雄吉