洗心言
2014年 晩秋・初冬の号
花鳥風月雨雪
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- 花鳥風月雨雪【雨】
- 雪よりも先に、冬の訪れを告げる時雨。木々の葉を鮮やかに色づかせることから、万葉の時代より多くの歌に詠まれてきました。
平安人の生き方に学ぶ
日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
晩秋・初冬の「平安人の生き方に学ぶ」は、千年の時を超えたいまもなお輝きを失わない物語を紡いだ、紫式部の生き様をひもときます。
「運命に翻弄されながらも
懸命に生きた紫式部」
官位を意味し、紫の由来は分かっておらず、生年月日も不明です。母を早くに亡くすなど家庭的に恵まれなかった式部は、学者でもあった父の影響で幼少期から文学に傾倒。覚えもよく、『史記』をそらんじるほどでした。
成長した式部は二十七歳のころに結婚。相手は二十歳近く年上の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)という役人でした。ふたりは賢子(けんし)(後の大弐三位(だいにのさんみ))という娘をもうけるものの、ほどなくして宣孝が病死。娘を連れて実家に戻った式部は年老いた父たちと暮らすなかで、ある小説の執筆に没頭します。それが『源氏物語』であり、その面白さは多くの人の知るところとなり、作者の名も広まっていきました。
そんな式部に転機が訪れます。評判を聞きつけた時の権力者、藤原道長により宮中に引き上げられたのです。課せられた役割は、一条天皇に入内(じゅだい)させた娘、彰子(しょうし)の女房というものでした。
三十代半ばで宮仕えをはじめた式部は、娘ほど年の離れた彰子の身のまわりの世話はもとより、中宮にふさわしい素養を身につけさせるために古典や漢書の講義までを行いました。しかし、教養にあふれた式部を妬んだほかの女房たちの陰口に耐え切れず、一度は実家に戻ります。
数ヶ月後に、宮中に戻った式部は漢詩を読めないように振る舞うなどして、女房としての仕事を粛々とこなします。同時に執筆をつづけ、五十四帖に及ぶ『源氏物語』の全篇を完成させた後に宮仕えを引退。そのときの年齢は四十代半ばといわれ、それからのことについては本名や生年月日と同じく、詳しいことは分かっていません。
『源氏物語』には、人生の随所に訪れる心の動きが写実的に描かれています。恋のときめき、不義にまつわる苦しみ、ままならぬ世への憂い、魂の救いを求める祈り。どれだけ時代が変わっても、人が迷ったり、悩んだりすることに変わりはありません。ゆえにいつの時代にも、読む人は運命を受け入れて懸命に生きる登場人物に自らを重ね、ともに悲しみ、喜び、生きる希望を感じてきたのでしょう。
物語の執筆には、式部がその生涯を通じて得た記憶や経験が活かされたといわれています。筆を執ったそもそものきっかけは、この世に生きる人の思いを、後の世の人にも伝えたいと思ったからとされています。自らも運命に翻弄されながらも懸命に生きた紫式部。その思いは千年の時を経たいまも、人々の心を打ちつづけています。
京都おちこち
京都のおちこち(あちらこちら)にある、変わった地名などをご紹介する「京都おちこち」。
今回は、かつて都が置かれた長岡京市にある神足の名前の由来をひもときます。
「桓武天皇の夢から
生まれた神足」
京都市の南西に位置する長岡京市。タケノコ栽培で名高い、西山に代表される豊かな自然を残しながら京都、大阪のベッドタウンや工業都市として発展したこのまちには、かつて都が置かれました。
延暦三年(七八四)、桓武天皇は平城京から都を遷して長岡京を造営。その理由として、奈良にはない水運の利に惹かれた、仏教勢力と距離を置くためなど諸説があります。ともあれ長岡京は都として大いに栄えるものの、わずか十年で平安京にその座を譲りわたすことに。それから千二百年近いあいだ、二十世紀半ばに本格的な発掘調査が行われるまで、長岡京は幻の都とされてきたのです。
神足(こうたり)は長岡京市にあり、しかも桓武天皇との縁が深い地名。その由来にはつぎのような伝説が残されています。ある夜、桓武天皇は田村(神足の旧名)の池に神が降り立つ夢を見た。その神は、宮中を南から襲おうとした悪霊を退治した。桓武天皇はこの神を祀る社を田村に建てさせ、それが後に神足神社となり、さらに神足という地名となった。もっとも、なぜ「神」に「足」がつけられたのかは分かっていません。神を表す「カム」と「イタり(至り)」から来たという説もあるようですが、はっきりとしたことは謎のままです。ちなみに神足神社は足の神として知られ、陸上競技やサッカーなど足(脚)を使った競技の選手が祈願によく訪れるそうです。
さて、神足というと駅の名前を思い出す方も多いことでしょう。JR京都線「長岡京」駅は、昭和六年(一九三一)の開業以来「神足」駅でしたが、平成七年(一九九五)に現在の駅名に改称されました。六十年余りのあいだに大きく発展した長岡京市に駅名を譲った神足ですが、町名にはいまも、その名を残しています。
百人一首 こころ模様
名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
晩秋・初冬の一首は、寂蓮法師の第八十七番です。。
村雨の
露もまだひぬ
槇の葉に
霧たちのぼる 秋の夕暮れ
- 寂蓮法師
- 通り雨がやみ、その露もまだ乾かないでいる槇の葉のあたりに、谷底からほの白い霧が立ちのぼってくる。
もの寂しい、そんな秋の夕暮れであることだ。
あたかも、水墨画のような味わいをたたえた一首。雨露に濡れ、緑をいっそう色濃くした槇(まき)の葉に覆われた山肌。深い闇が立ちこめた谷。そこに霧がかかり、繊細な濃淡がところどころに滲む風景を通して、晩秋を迎えた深山の静けさが表されています。
寂蓮(じゃくれん)法師は、このような歌も詠んでいます。「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ(寂しさというものは、別に色から感じるものではないのだなあ。常緑の槇が目の前にあっても、秋の夕暮れは寂しく感じられるものだ)」。
三十歳代で出家した寂蓮法師は、長い歳月を諸国行脚に明け暮れ、高野山で修行を積んだこともあるといわれています。人里離れた山で独り暮らす者にとって、秋の訪れはただそれだけで寂しいものだったのでしょう。
ところで、秋の夕暮れは古くより多くの歌に詠まれていますが、「寂しさは・・・」は『新古今和歌集』の三夕(さんせき)の歌のひとつ。三夕の歌は、秋の夕暮れをテーマとした作品のなかでも特に名歌とされる三首で、寂蓮法師のほかに西行法師と藤原定家の歌が選ばれています。
寂蓮法師は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた人。藤原定家の従兄弟にあたり、しばらく定家の父である俊成の養子として過ごしました。若いころから歌人として知られ、出家後には旅を通して歌才を磨き、後に定家や藤原家隆らとともに和歌の名門、御子左家(みこひだりけ)の中心歌人となりました。晩年は嵯峨に暮らし、『新古今和歌集』の撰者に選ばれますが、残念なことにその直後に没しました。
小倉山荘 店主より
不公平はお互いさま
ある人が友達にご主人の愚痴をこぼしていました。
「前は優しい言葉をかけてくれていたのに、最近はかけてもくれないのよ。だから私も優しくしないことにしているの」。
まさに「目には目を、歯には歯を」というものです。
人は誰しも相手に気に入られたいがため、最初は相手を尊重し、優しくしようと頑張ります。しかし、さまざまな事情によって、次第に頑張れなくなっていくのです。
一方、私たちは他人からどう扱われているかで、自分の価値が決まると錯覚し、それゆえ、相手から尊重されなくなると逆恨みが生じます。この気持ちの底にあるのは、「私は優しくしてあげているのに、あなたは優しくしてくれない。私だけが一方的に労を払うのは不公平である」という想いです。
しかし、自らの振る舞いを見つめ直すと、自分も相手に公平に接していないことに、多々気づかされるものです。
「不公平はお互いさま」と思えば、ゆったりとした気分で相手を受け入れることができ、穏やかな人間関係を保てるのではないでしょうか。
報恩感謝 主人 山本雄吉