洗心言
2015年 初秋の号
四季の文
- 四季の文【菊】
- 菊月と呼ばれた陰暦九月。九月九日は重陽の節句で、菊の花を浮かべた酒を酌み交わして長寿を願う慣わしがありました。
花鳥風月雨雪
日本が世界に誇る文化や芸術。その礎には、この国ならではの季節感や自然観があるといわれています。
四季が豊かな国に生きることで育まれ、受け継がれてきた独特の感性をご紹介する「花鳥風月雨雪」。
初秋は、月にまつわるお話しです。
世の無常と、
命の再生を表す輝き
『小倉百人一首』に、月を詠んだ歌がいくつあるかご存知でしょうか。意外にも、桜の二倍に近い十二首も収められているのです。ひとくちに月といっても、いろいろな月が詠まれています。煌々と照る月。雲の切れ間から顔を覗かせたと思ったら、再び隠れる月。明け方の空に白々と浮かぶ月。季節も秋だけでなく、夏や冬の月を詠んだものが撰されています。
詠まれた場所や状況もさまざまです。安倍仲麿は唐の海岸で見た月に故郷を思い出し、赤染衛門は約束を破って来なかった男性への恨みを、夜明けの月に重ねました。西行法師は旅の途中、恋しい人への叶わぬ想いを月に託しています。
古くから日本人は、天体の中でも月の歌を多く詠んできました。その理由として、星よりも存在感があり、太陽とちがって気軽に眺められることが考えられます。さらに月は変化に富み、青白かったり、赤みがかったりと観る人の気持ちを表すように、その時々によって異なる色あいを見せます。うさぎが餅をついているように見えるなど、表情豊かであることも月の魅力です。もちろん、夜の闇を照らして安らぎを与えてくれることも、月が好まれる理由のひとつといえるでしょう。しかし何よりも、日本人が月を愛してやまないのは咲けばやがて散る花と同じように、月に「もののあはれ」を感じているからではないでしょうか。
世間は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 満ち欠けしける
『万葉集』に収められた、詠み人知らずの一首。この歌にあるように、月は満ちたと思えば日に日に欠け、やがて空から消え去ります。いにしえの日本人は、そんな月のうつろいに儚いがゆえの美しさを見出していたのでしょう。
しかし、月は再び天に昇ると丸く満ち、以前と変わることなく夜空を優しい光で照らします。世の無常を感じさせる月は、希望に満ちた再生の象徴でもあるのです。日本人の人生観を映す月。今宵も空を見上げると、そこには心を照らす輝きが浮かんでいることでしょう。
京の顔あれこれ
日本だけでなく、世界が注目する古都の知っているようでよく知らないいろいろな「顔」をご紹介する「京の顔 あれこれ」。
初秋は、四神相応についてのお話しです。
まち全体が
パワースポットの京都
奈良の平城京から長岡京を経て、平安京へ。桓武天皇が都を遷した理由には諸説があります。朝廷に介入しはじめた仏教勢力を遠ざけるため、自分とは異なる血筋を受け継ぐ天武天皇系から離れるため、など。
では、なぜ最終的に京都を選んだのでしょうか。その理由も諸説紛々ですが、興味深い説のひとつに、京都が四神相応の地であったからという話しがあります。四神相応とは地形や方位、陰陽五行説などを踏まえたうえで王宮や住宅、墓などの場所を決める古代中国の風水思想にもとづくもの。四神とは東の青龍(流水)、西の白虎(大道)、南の朱雀(くぼ地)、北の玄武(丘陵)を意味し、桓武天皇は京都をこれら四神が鎮座する吉地と考えたのでしょう。一説に、桓武天皇は東山の将軍塚から京都盆地を見下ろし、その地形を確認したうえで遷都を決めたといわれています。
では、それぞれの神が京都のどこにあてはまるかというと、青龍は鴨川、白虎は山陰道、朱雀は現在は埋め立てられた巨椋池、玄武は船岡山。もっとも、どこが四神かについてはさまざまな説がとなえられていて、正確なことはわかっていません。
また、後ろに山が連なり、前方に海や湖などの水が広がる土地は背山臨水といわれ、これも風水思想で運気がよいとされる地形。京都も背山臨水にあたり、四神相応とともにこちらも遷都の決め手となったのかもしれません。
七九四年の遷都から千百年にわたって都であり続け、その後も人を惹きつけてやまない京都。これもやはり、四神相応のおかげなのかもしれません。
百人一首 千年の景
名歌に詠われた情景をご紹介する「百人一首 千年の景」。初秋の一首は、紫式部の第五十七番です。
めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
- 紫式部
- 久しぶりにめぐり逢って、見たのがそれかどうかもわからぬうちに雲に隠れた真夜中の月のように、偶然に逢った昔からの友はあわただしくお帰りになったことです。
時は平安時代のいつごろかの七月十日、いまでいえば初秋を迎えるころ。そろそろ夜の風が涼やかになり、月もひときわ美しく見える時節。風流を好んだ平安人であれば、月の出が待ち遠しくて仕方がなかったことでしょう。はやる気持ちを抑えて夜を待ち、やっと月を見つけたと思ったらすぐに雲隠れされた。その悔しさは、さぞや大変なものだったにちがいありません。
もっとも、紫式部が感じた惜しさはほかにありました。ちょうどその夜、紫式部のところに友人がやってきました。それは何年ぶりかに逢えた幼なじみ。きっと、積もる話しもあったことでしょう。もしかすると、月を眺めながら夜を明かして語りあおうと思っていたのかもしれません。しかし、紫式部のそんな気持ちを知って知らでか、幼なじみはわずかな時間しかともに過ごさず家に帰ってしまったのです。あたかも雲隠れする月と競争するかのように。
この後、九月が終わるころに、幼なじみは再び紫式部のもとを訪れます。しかし、それはあらためて旧交を温めるためではなく、都を離れることを知らせるためのつかの間の再会でした。
紫式部はいわずと知れた『源氏物語』の作者であり、平安時代を代表する作家の一人ですが、生年月日や本名は分かっていません。名前については諸説があり、紫は『源氏物語』に登場する紫の上に、式部は父藤原為時の官位に由来するなどといわれています。
別れを惜しんだ幼なじみは女友だちだったそうですが、その後の二人の関係は知られていません。三たび再会し、月を眺めながら思い出話に花を咲かせていたら、素敵なのですが。
小倉山荘 店主より
人生は道路のようなものだ。
一番の近道は、たいてい一番悪い道だ
人生では幾たびかわかれ道に出会い、どちらの道を選ぶかによって、辿り着くゴールは異なります。その道には安易で楽な道もあれば、苛酷で苦難に満ちた道もあります。どちらの道に進むかは、自分の人生でどこまで行きたいかという、目標と覚悟にかかっています。
イギリスの哲学者、フランシス・ベーコンの言葉通り、人生にはさまざまな道があります。近道を選ぶよりも、回り道だと思った道の方が良いこともあります。もっとも、この言葉は単に近道が悪いと言っているわけではなく、高みを望みながら、平らな楽な道を歩くことを戒めているように思えます。
私たちは山を目の前にすると、そこに続く道を歩き出すことを躊躇しがちです。しかし、最初の一歩を踏み出さなければ、ゴールそのものもあり得ないのです。
報恩感謝 主人 山本雄吉